性産業で働くある女性の誇りと傷
ある性産業に従事している女性と話す機会があった。彼女は自分の仕事を誇りに思っており、慈善家が「性産業の犠牲になっている女性たちを救うためには、性産業そのものがない世界を築かなければならない」と主張することに憤っていた。
「わたしのことを『かわいそうだ』と言う前に、店に来てみろってんだ。わたしのフェラチオがどれだけうまいか、味わってから『かわいそう』かどうか判断したらいい」
彼女の凛としたもの言いに、わたしは感銘を受けた。ふと、彼女のノースリーブから露出した腕が目に留まった。肩から上腕にかけて、偶然ついたとは思えない幾つもの傷痕が刻まれている。精神科医で嗜癖の専門家である、松本俊彦氏の著作で読んだことがある。自傷は、つかみどころのない苦しみを現前化する行為でもあると。
この人が自分の仕事に誇りを持ち、喜びを感じながら従事していることに、おそらく偽りはないだろう。それは彼女の口調からもいきいきと伝わってくる。だがその一方で彼女は、わたしには決して分からない苦しみを抱えているのかもしれない。このときもわたしは聖書のある一節を思い出していた。
(『マタイによる福音書』18章12~13節)
「迷子の羊」という言葉に何を思うか
わたしは聖書のこの箇所を、園長をしていた折には幼稚園児たちに、そして卒園生の子どもたちにも、繰り返し語り聞かせたものだった。
「イエスさまはね、迷子になったかわいそうな仔羊を、いっしょけんめいさがしてくれるんだよ。仔羊はきみたちだ。きみたちがひとりぼっちになって泣いていたら、すぐにイエスさまがさがしにきてくれるんだよ」
わたしはその話をする際に、自動的に脳内変換していた。羊の群れから迷い出た一匹の羊を、かわいらしい仔羊としてイメージしていたのである。まるで捨てられた仔猫のように、心細そうに鳴いている一匹の仔羊。仔羊のため懸命に岩場を探し歩く、頼もしい羊飼いイエス・キリスト……。
だがわたしの話には、羊を探す羊飼いからの視点しかない。迷い出た羊が見ている光景がないのである。あるいは羊の心情を「カナチイ、タチュケテ」と単純化しているといってもよい。