「かわいそう」という感覚を持つ対象には優先順位がある。それは「かわいそうランキング」という言葉で表現され、とりわけ中高年男性は順位が低く、哀れみの対象にすらならないと批判されている。牧師の沼田和也さんは「聖書にも似たような記述がある。『困っている人のために行動する』というのは、簡単ではない」という――。

※本稿は、沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)の一部を再編集したものです。

聖書に祈る女性の手
写真=iStock.com/doidam10
※写真はイメージです

コロナ禍で増えた教会への相談

わたしのもとには現在、先の見えないコロナ禍ということもあり、以前より相談の連絡が増えている。例えば、若い人であれば将来が見えないという不安。中高年の人であれば、これまでの人生の意味への問い。コロナ以前は当たり前だったさまざまなことが、制限や断念を余儀なくされる。

ひたすら走り続けてきた人が立ち止まらざるを得なくなったとき、ふと、それまで考えもしなかった抽象的な考え、極論すれば「自分はなぜ生きているのか」が頭をもたげてくるのである。もちろん、その問いかたは一人ひとり異なる。その人ごとに固有の、しかも普遍性をもった問いに耳を傾けながら、わたしもまた自分自身に対して「自分はなぜ生きて、この目の前の人と向きあっているのか」を問うことから逃げられなくなる。

ところで、「コロナで相談者が増えた」みたいな話をすると「沼田先生のところにはいろんな人が相談に来られるのですね。信頼されているんですね」と言ってくれる人もいる。まことに恐縮なことであるが、わたしは失敗もたくさんしてきた。今もしているし、これからもするだろう。むしろ失敗というか挫折というか、うまくいかないことのほうが多い。なにしろ相手は人間なのだ。そんなにうまくいくわけがない。相談者が抱えていた問題がぱあっと解決するような、そんな都合のよい美談などあるわけがない。