聖書も触れている「かわいそうランキング」の存在

そこで話は教会に戻ってくる。すなわち、わたしが「こんな人、教会に来て欲しくない」と、思わず拒絶反応を示してしまう人がいるし、じっさいそういう人としばしばトラブルになってしまうという話である。冒頭の悩み相談一つとってもそうである。これについて、聖書には、ぎくっとしてしまう言葉がある。

あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。
(『ヤコブの手紙』2章2~4節)

聖書にはすでに「かわいそうランキング」が言及されているのだ。そして、ここにはもう一つ大事な事実が隠されている。その“貧しい人”が、通俗的な意味での“いい人”とは限らないということである。

虐げられた人が「助けたくなる人」とは限らない

わたしたちはドラマなどの影響により、貧しく虐げられた人のことを無垢むくで純粋な人、あるいは貧しさから抜けだそう、夢を追いかけようと努力している人としてイメージしがちである。そして、そういう“貧しい人”を支援したいと思うものだ。だが、ここに落とし穴がある。

わたしのもとにやってくる人のなかには、複雑な生い立ちを背負わされた人も多い。なかには幼少時からつねに、まわりの大人たちから裏切られ続けてきた人もいる。ニュースになるような、警察が逮捕できる暴力だけが子どもを傷つけるのではない。小さな裏切りの膨大な積み重ね。そんな裏切りを浴び続けてきた人はときに、「世界のすべては自分の敵である」と思っている。