心優しい慣習
一年ほど前から気になっていたニュースがある。
兵庫県丹波篠山市の、一風変わった慣習だ。
市内東部の集落には“授かり地蔵”が奉られている。授かり地蔵そのものは全国各地にあるからさほど珍しくはないが、この集落のお地蔵さんがちょっと変わっているのは、自由に“持ち帰ってもいい”ことだ。子どもを願う夫婦や女性が妊娠を祈願したり、無事出産にこぎ着けたりするまで、お地蔵さんを手元に置いていても誰にも咎められないのである。なんとも心優しい慣習ではないか。
そのお地蔵さんが、忽然と姿を消したのが昨年の初夏だった。それを地元のタウン誌『丹波新聞(令和3年6月11日付)』が報じたのだが、あれから一年と少しが過ぎ、お地蔵さんを奉った祠は主不在のまま、二度目の冬を迎えようとしていた。そろそろお地蔵さんが戻ってもいい頃だが――、と続報が伝えられるのを私なりに待っていた。
「それが、まだ戻っていないんですよ」
記事を書いた丹波新聞の記者・森田靖久が言う。
この集落に持ち帰ってもいい授かり地蔵があることを、森田は地域住民の情報提供で知ったそうだ。それを記事にしたのが一昨年の11月。そして年が明け、昨年のゴールデンウィークが過ぎて間もなく、今度はお地蔵さんの姿がないとの情報が寄せられた。
数十年ぶりかもしれない…
周辺に住む住人が言うには、お地蔵さんが最後に“お出かけ”になったのはいつのことだか記憶も曖昧で、ともすれば数十年ぶりになるらしい。ということは、森田の記事を読んだ誰かがお地蔵さんを持ち帰ったと想像するのは難くない。
「80歳を過ぎているお年寄りに聞いても、物心がついた頃にはもうあそこにお地蔵さんは奉られていて、何度かお出かけになっているそうなんです。でも、お地蔵さんがお出かけになっても、誰も騒ぎ立てないし、取り立てて話題にもしません。誰が持ち帰ったのか、詮索もしません。地域の人はお地蔵さんの役割を知っているので、そうかそうか、お地蔵さんはお出かけかい、と静かに見守るのだそうです」