お地蔵さんはどんな存在だったか
では、なぜお地蔵さんが、社会的に虐げられた女性に寄りそう存在になったか――?
「お地蔵さんはもともと、この世とあの世の境界を行き来する存在で、現代で言うところの弁護士のような役割を担っていました。仏教において、子どもが子どものうちに死ぬのは罪とされ、それだけで地獄に落とされると信じられていました。可哀想でしょ、医学も未発達やし、衛生環境や食糧事情もよくない、しょっちゅう疫病は蔓延する。ちょっとしたことで死ぬ子はたくさんおった。でも、そういう子はみんな地獄に落とされる」
生前の行ないを吟味し、地獄に落とすかどうかを裁くのは閻魔大王だ。子どものうちに死ねば問答無用で地獄に突き落とそうとする閻魔大王にかけあってくれたのがお地蔵さんなのだそうだ。お地蔵さんは地獄の入口まで出向いて、閻魔さまを説得する。この子かて死にとうて死んだわけやあらへん。こんな幼気な子を地獄に落とすなんてあんまりや、考え直してくれまへんか。
関西弁で交渉したかどうかはともかく、地獄に落とされそうな子どもをお地蔵さんはことごとく救ってくれた。仏教が日本に伝わったのは平安時代だが、夭逝した子どもを救済してくれるのだから、仏教の広がりに合わせ、地蔵信仰もまた大いに広まり、各地に根づいていく。村はずれや道端にお地蔵さんの石像が奉られているのもその名残だ。
「あれはもともと道祖神なんです。道祖神は“賽の神”とも書き、境界線を守る神道の神さまで、疫病などの厄が村に侵入するのを防いでくれていました。しかし、仏教が広がる勢いは強く、神仏は習合し、いつの間にか道祖神がお地蔵さんになっていた。日本各地の道端にお地蔵さんが立ってるんは、そういう理由からです」
子ども好きの神さま
お地蔵さんはこの世とあの世の境界を行き来し、道祖神は境界を守る神さまなら、“境界”という共通点を持つ神さまと菩薩さまを、中世の人々は混同したのかもしれない。
さらに言えば、地獄に落とされる子どもをお地蔵さんが救ったように、道祖神もまた子ども好きで知られた神さまだったらしい。民俗学者の柳田國男も『日本の伝説』(新潮文庫)に書き記している。
道端に立ち、厄災を防ぎながら、道祖神は無邪気に野原を駆けまわる子どもたちを見守っていたのだろう。地獄に落とされかねない子どもを救ったお地蔵さんと子ども好きな道祖神――、神仏習合でこの二つがごっちゃになるのは必然だったような気さえしてくる。自然石を道祖神として奉ることもあったというから、丹波篠山の授かり地蔵のように自然石をお地蔵さんと崇めても不思議ではないのだ。そして地蔵信仰は広まり、お地蔵さんは子どもを守ってくれる仏さんになっていく。
「この世とあの世の境界線は、すなわち命の境界線です。子どもができるということは、新しい生命が誕生するということですから、子どもを宿すかどうかを境界線のこちら側で立ち会ってくれる。それが授かり地蔵さんなんですね」
閻魔大王にかけあってくれるばかりか、新しい生命の誕生に立ち会ってくれる――、メルヘンチックではないが、かなりロマンティックな話ではある。