ケンタッキーフライドチキンの誕生
決めたら早いサンダースは、ピート・ハーマンというレストラン経営者の友人の家に押しかけて、「外にメシでも行こうぜ」というハーマンを無理やり座らせ、フライドチキンを作り始めます。
サンダースが工夫して開発したレシピを用いたフライドチキンは火力の劣る一般家庭の台所で作れる料理ではありませんから、調理にはものすごく時間がかかります。出来上がったころには深夜になっていたそうです。
イライラしながら待っていたハーマンと彼の家族ですが、出てきたフライドチキンを一口食べた途端、大感激。それはそうですよね。ただでさえおいしいのに、深夜まで待たされてペコペコのお腹で食べたら、言葉を失うでしょう。サンダースからすると、狙い通り。ハーマンにビジネスの話をもちかけます。
このレシピを使って商売をしないか?
前例のないビジネスにハーマンも少し迷ったようですが、少し経って決断しました。
「乗った。自分がチキンを1ピース売るたびに4セント払う。これでどうだい?」
サンダースはもちろん承諾。こうしてフランチャイズ1号店がオープンしました。
ハーマンはこうも言ったようです。
「ここはケンタッキー。だから、これは『ケンタッキーフライドチキン』だ!」
白いスーツに蝶ネクタイ。車中泊で営業活動
自信をつけたサンダースは、中古車にチキンを揚げるための圧力釜と秘伝のスパイスを積み、家族と一緒にレストランを巡ります。車中泊をしながら、田舎の料理のレシピを売りつけようとする怪しげな老人。サンダースは少なくとも1000回は門前払いを食ったといいます。でも、サンダースにとって断られることなんて屁でもなかったのでしょう。70歳近いサンダースはあきらめずに営業を続けます。
このときサンダースが着ていたのが、あの真っ白なスーツと蝶ネクタイでした。ケンタッキーフライドチキンの店舗前にあるサンダースの人形のスタイルです。サンダースは営業先のキッチンを借りてフライドチキンを作ってから、あのスーツに着替えてフランチャイズを持ちかけたのでした。
どうですか? おいしかったでしょう? と。
このビジネスは大当たりします。最初の1年こそ7店としか契約を結べませんでしたが、翌年からは爆発的にフランチャイズが拡大し、あっという間に数百店の規模に広がっていきました。
90歳で生涯を閉じるまで、世界中を飛び回っていたサンダース
全米の店舗数が600を超えたとき、サンダースは74歳になっていました。ビジネスが自分の手を離れたと考えたサンダースは、若い実業家のジョン・ブラウン・ジュニアに権利を売って一線から退きます。ジョンはのちのケンタッキー州知事です。
サンダースは走ることをやめたわけではありません。その後もケンタッキーフライドチキンの顔として、日本を含む世界中の店舗を飛び回りました。彼は店舗を一つひとつチェックして回ったんです。自分のレシピがちゃんと守られているかを確認するために。
そして1980年、ケンタッキーフライドチキンの店舗数が世界で6000を超えたころ、サンダースは90歳で生涯を終えました。棺に納められたとき、彼はあの白いスーツを着ていたといいます。