※本稿は、伊藤穰一『テクノロジーが予測する未来』(SB新書)の一部を再編集したものです。
有能な技術者が能力を発揮しきれていない
長年、アメリカの教育現場に身を置いてきた目から日本を見たときに、残念だなと思うことがあります。
それは有能な技術者が育っていないことというよりも、技術者の社会的立ち位置が確立されていないために、有能なはずの技術者が能力を発揮しきれていないこと、といったほうが正確かもしれません。
日本の教育では、ずっと学生を文系と理系とに分けてきました。そして文系は総合職、理系は専門技術職というように進む道が枝分かれするうちに、「文系人材が立てたプランに従って理系人材が働く」という上下関係の構図ともいえるものができてしまったように思えます。
文系と理系に分ける教育は、メーカーという技術者集団がモノをつくり、それを文系の集団である総合商社がどんどん海外に売る、という戦後の高度経済成長期の頃はうまく機能していたのでしょう。
しかし大量生産・大量消費の時代が過ぎ去り、さらにはweb3によって、あらゆる面で分散化(非中央集権化)がこれから進もうとしているいま、教育の仕組み自体に見直しが迫られています。それ次第で、日本の国力は大きく変わってくるといってもいいくらいです。
テクノロジーに明るくない人たちが国家ビジョンを描いている
小手先の教育改革ではなく、社会のアーキテクチャー(構造)を変えるくらいの変革が必要です。
昔は木材だけで建物をつくっていたところに、コンクリートやガラスのような新しい素材が現れました。しかし、外側の見栄えだけで建築を考えていたら、これらの性質を理解しないまま素材だけを変えて、違う見栄えであっても同じ構造の建物をつくっていたでしょう。
建築の構造というものを理解し、そこに「コンクリートはこんな素材」「ガラスはこんな素材」という知識が合わさって初めて、「いままでにはなかった、こんな構造の建物ができる」という発想が生まれる。こうして建築が構造から変わり、街の設計や機能も変わっていく。これこそ、アーキテクチャーが変わるということです。
いまの日本を見ていると、素材のことをまったく理解していない人たちが、建物の見栄えだけで「これからの建築物はどうあるべきか」と議論しているように見えます。
テクノロジーに明るくない人たちが国家のビジョンを描き、ゴールを設定している。このテクノロジー全盛時代に、です。これではビジョンもゴールも的外れになるのは不思議ではありません。