石田三成(いしだ・みつなり)
1560~1600年。国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)生まれ。幼名佐吉。豊臣秀吉にその俊敏さを認められ、治部少輔に叙任される。秀吉の死後、1600(慶長五)年関ヶ原の合戦で家康に敗れ、京都六条河原で処刑された。
<strong>作家 和田 竜</strong>●1969年12月、大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。2003年、映画脚本「忍ぶの城」で第29回城戸賞を受賞。07年、同作を小説化した『のぼうの城』で作家デビュー、直木賞候補となる。08年、小説第二作「忍びの国」を発表。
作家 和田 竜
1969年12月、大阪府生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。2003年、映画脚本「忍ぶの城」で第29回城戸賞を受賞。07年、同作を小説化した『のぼうの城』で作家デビュー、直木賞候補となる。08年、小説第二作「忍びの国」を発表。

石田三成は、極悪非道な謀反人――。

徳川幕府は、豊臣陣営から政権奪取したことを正当化するため、「関ヶ原の戦い」などを起こした三成を徹底的に誹謗中傷しました。三成悪人説は江戸時代にはたちまち定説となり、明治維新後も、なぜか三成=悪人のレッテルは取り除かれないままだったのです。『のぼうの城』を執筆するにあたり、様々な歴史資料を精読しました。その多くも、やはり「三成の何たる馬鹿なことよ」といったトーンでほぼ一致していました。

現在の埼玉県行田市にあった、武州・忍城(おしじょう)。乱世の時代、天下統一を目前に控えた秀吉の命を受け、三成は約2万の大軍を指揮し、この城を攻めました。

周囲を湖で取り囲まれた「浮き城」の異名を持つ難攻不落の城。総大将は、知も仁も勇もないが、常に泰然とし、領民から「(木偶:でく)のぼう様」と呼ばれ慕われていた成田長親です。

三成は水攻めなども駆使しましたが、奏功せず。結局、のぼう様の不思議な人心掌握術によって百姓や女・子供を含めわずか2000の兵が活躍したこともあり、三成は忍城を落とせぬままに帰ります。そのすべての責任は、三成にある。ほとんどの資料は、三成を酷評するものでした。いかに三成ができないヤツで邪悪な心を持つ者かということをこれでもかというくらいに書いている。

例えば、こんな話があります。北条家の小田原城を攻めるため、先発隊として、ある城にいたのが秀吉側陣営の徳川家康と織田信雄(織田信長の次男)。そこへ遅れて秀吉が到着する直前に、三成は「あの二人(家康と信雄)は殿下の命を狙おうとしています」と言う。

さきほどの城攻めであれば、堤防が決壊して水びたしになってドロドロした土地に、無理やり兵を進めようとして、失敗した、など。

そんな奸悪な人物、能力のない武将として三成はいつも描かれるのですが、明治時代も40年たって上梓された『稿本石田三成』でようやく肯定的な評価が登場します。最終的に『のぼうの城』で僕は、三成を「悪人」キャラクターではない人物として描きました。

実際、人間的にとても魅力的だと思ったのです。いろいろ調べて最も強く感じたのは、三成の「純粋さ」でした。頭脳明晰であったことは誰もが認めるところですが、その純粋さは、いいほうに向けば現実を打破する、胆力になる。ただし、ひとたび悪いほうに向けば暴走してしまう危うさを孕んでいるようにも見えた。

私が実際に接したことのあるキャリア官僚にも三成に似たものを感じたことがあります。頭の回転が驚くほど速く、国を切り盛りする国家公務員としての理想を追い求めている。その一方で、中小零細企業の現場レベルの瑣末な問題など軽く超越し、鼻に付くような言動や、庶民からは浮遊したような思考も時にはしてしまう。

三成もそんな人物だったのでしょう。おそらく組織の中では扱いづらい存在でしょうが、僕にはとても魅力的に映る。

(構成=大塚常好 撮影=大杉和広)