牛丼である私たちは、資本家以上にはなれない

私たちは生活するために、衣食住が必要だ。そして、通信費などもかかる。それらを加算していって、世間一般ではこれくらいあればいいという相場が決まる。いまでは各都道府県の最低生活費も、ネットで調べればすぐに出てくる。

牛肉がキロあたり1000円のタイミングもあるかもしれないし、900円のタイミングもある。でも、いちいち価格を変えていられない。「牛肉のコストはだいたいキロあたり950円で考えたら、問題ないでしょ」と設定される。

労働者一人ひとりも同じだ。私は浪費家だとか、スポーツカーを買いたいといっても、個々の事情は考慮されない。生活費の平均値を上回る部分は、諦める必要がある。しかし、社員が優秀で、ものすごい成績を残すかもしれない。それでも、その成果の大半は、雇用している側の取り分だ。同期とくらべて、すこし給料の差がつくかもしれない。ただ牛丼である私たちは、資本主義の構造上、資本家以上にはなれない。

牛丼が薄利なのは、広く知られている。私は『牛丼一杯の儲けは9円』という本まで書いた。「だって牛丼でしょ。安くて当然でしょ。コストも安いでしょ」と消費者が思っているので、1000円は払わない。牛丼が薄利で、牛丼が私たちだとすれば、私たちの労働結果である給与をもらっても、まったく預貯金がたまらないのは当然といえるかもしれない。

構造上、会社に勤めたままでは不満を解消できない

私は新入社員のころ、お金があまりに毎月ギリギリなので「給料というのは凄いな。ちょうど、生活できるギリギリに設定されている」と感心した。

坂口孝則『稼ぐ人は思い込みを捨てる。』(幻冬舎)
坂口孝則『稼ぐ人は思い込みを捨てる。』(幻冬舎)

なお、このマルクスの考えを「労働価値説」と呼ぶ。現代の経済学者からは否定されている。私も全面的に賛成していない。単純化したモデルだし、前の章で取り上げたとおり業界によって給与がばらつくことは知られている。しかし、「給料が上がらない、上がらない」といわれる日本ではマルクスのこの説が当てはまっているのではないだろうか。

本章で描いたとおり、日本の従業員は自分が正当に評価されていないと感じているし、収入を目当てに働いている。いまの会社にも愛情を抱いていない。しかし、構造上、会社に勤めたままでは不満を解消できないかもしれない。そうすると、第二(起業)の道も検討するべきだ。やるかどうかは別として選択肢を増やすのは価値がある。

現状以外の道を考えることで、自分の能力について客観的になれる。いま以上のスキルや能力が必要かもしれない。自分の市場価値にくらべて、所属会社からはやはり不当な評価しか得られていないのであれば飛び出すのも選択肢だし、逆に現状に満足しなければならないかもしれない。

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