現代でも使われる、「泣いて馬謖を斬る」の出典となった故事だが、1つわからないのは、なぜ馬謖は恩人である孔明の指示を無視して、「自分なりのやり方」を押し通そうとしたのか、という点だ。彼は兵法にも通じていて、山の上に布陣するリスクがまったくわからないほどのボンクラでもなかったはずだ。
実は、この疑問を解く鍵となるのが、彼の出自にある。
馬謖には4人の兄弟がいたが、いずれも優秀な人材として天下に知られ、字(あざな)に「常」がつくため「馬家の五常」と尊敬をこめて呼ばれていた。
特に馬謖の兄の、馬良は際立った才能の持ち主だった。現代でも、最優秀なものを形容するのに「白眉」という表現を使うが、それは馬良の眉に白い毛が生えていたことが語源になっているほどだ。
当然、弟の馬謖は常日頃、優秀な兄との比較にさらされていたのだろう。これが、街亭での失敗の第1の要因となる。
さらに、この馬良が、222年の夷陵の戦いで戦死を遂げてしまう。この結果、残された馬謖は、兄の分の重い期待もかかってくる。これが第2の要因だ。
馬謖の心中を察するに、「優秀だが兄よりは劣る」「馬家の2番手」といった評判をくつがえし、はやく成果をあげて「さすが馬謖」「兄を超えた」と言われたかったのだろう。そのためには「自分なりの手柄」を立てなければならない。
街亭の守備を任されたときも、ここで孔明の指示通りに動き、それで成功を収めても、「自分なりの手柄」にはならない。手柄は明らかに孔明のものだ。
ならば、自分なりのやり方を試してみよう、周囲の反対を押し切って大成功を収め、さすが馬謖と言われよう、おそらくそんな気持ちを押しとどめられなくなったのだろう。
しかし、現実はテレビドラマのようには行かない。馬謖は、今から1800年も前にキムタクになり損ね、その責任を自分の首で贖った人物だったのだ。