「最近の新人は、先輩から教わった仕事の手順を平気で無視するんですよ」と知人にぼやかれたことがある。

「テレビドラマだと、キムタク扮する若いサラリーマンが上司とか先輩の反対を押し切って、自分なりのやり方で成功するみたいな話があるじゃないですか。その悪影響ですかねえ。お前はキムタクじゃないことに気づけよって思いますね」

これが些細なビジネスでの話ならまだ笑い話にもなるが、一国の命運のかかった戦争でやられると目もあてられない。しかし、『三国志』の時代に、それをやってしまったのが蜀の馬謖(ばしょく)だ。

227年、諸葛孔明(名は亮 字は孔明)が、宿敵・魏への討伐軍を組織したさい、その最も要となる方面軍の司令官に任命されたのが、この馬謖だった。

馬謖はそれまで若手参謀として、諸葛孔明の傍についていた人物。実戦経験が少なく、現場からは不安の声が上がるが、孔明は理論家としての彼を高く評価し、起用に踏み切ってしまう。当時、蜀は小国で人材が払底、致し方のない面もあったようだが……。

それにしても、現代の企業でいえば、現場経験のない戦略室や社長室勤務の若手を、いきなり社運のかかった新規事業の責任者に据えてしまったようなもの、異例の大抜擢だった。

街亭という町を守備する役割を担った馬謖は、事前の孔明からの指示を無視して、山の上に陣を構えてしまう。

攻め寄せてきた魏軍は、馬謖の布陣を見て、山を包囲し、水の補給路を絶つ。渇きに苦しんだ馬謖の軍は、結局、散々に魏軍に打ち破られ、この結果、蜀軍は総崩れとなってしまった。

こうして第1回の魏への遠征は失敗に終わり、孔明は、お気に入りだった馬謖を泣く泣く斬って、責任をとらせた──。