「人事異動」は職場が変わるだけではない。人生をも大きく左右させる。

西郷隆盛が、まさにそうだった。

西郷は、18歳(数え。以下同)で郡方書役助となった。郡方は、藩内の村々を巡回して村役人を監督し、生産を励まし、年貢を取り立てる奉行職。その郡方の配下に書役、つまり書記官がいる。書役助はそのいちばん下っ端の見習いというわけだ。

のちに西郷は肩書きから「助」がとれて書役に出世するが、以後10年、同じ職場から動くことはなかった。

郡方にくっついて、筆を舐め舐め帳面に記録をするだけの下っ端役人にすぎなかった西郷は、28歳になった安政元年(1854)1月21日、藩主島津斉彬(なりあきら)の参勤に従って鹿児島を発ち、3月6日、江戸に着く。

この参勤の列のなかに、斉彬の養女篤姫がいた。薩摩藩主一門島津忠剛(ただたけ)の娘として生まれた篤姫は、藩主斉彬の養女となり、さらに形式上、右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女となって、将軍家へ「降嫁」する段取りだった。

西郷は、出府してすぐの4月から庭方(にわかた)役に任命された。

庭方役とは、薩摩屋敷の庭の手入れや掃除などをする、身分が低く、俸給も少ない者だった。だが藩主のすぐ近くに仕え、政治について語らうこともあれば、「密事」を命ぜられることもあった。まさに藩主の「目」「耳」となって働く立場だったのだ。

この庭方役としてすぐに出会ったのが、水戸藩主徳川斉昭のブレーン藤田東湖だった。西郷は、東湖と語らうために、飲めない酒を飲んで潰れた。「この男は酒を断れば礼を失すると思って飲んだのか。その気持ちがうれしいではないか」と、かえって信頼されたというエピソードがある。西郷は東湖を師と仰ぐようになるのだが、出会って1年半後の安政2年10月、安政江戸地震でその師を失うこととなった。