篤姫が安政3年(1856)12月18日に輿入れしたときは、もちろん初婚だったが、夫となった13代将軍徳川家定は3度目の結婚だった。篤姫は数えの21歳、家定は数えの33歳。ひとまわり違いの夫婦だった。

といっても家定は「バツ2」というわけではない。1人目の正室任子(ただこ)を7年前の嘉永元年(1848)に26歳で亡くし、2人目の正室秀子(寿明姫)を5年前の嘉永3年に25歳で亡くしていたのだ。

任子は鷹司政熈の娘で関白鷹司政通の養女、秀子は関白一条忠良の娘。ふたりとも公家の出だったため、次の正室を京都から迎えるのは憚られていた。

そこで白羽の矢が立ったのが篤姫だったのだ。

家定の祖父にあたる11代家斉の正室寔子(ただこ)が薩摩藩主島津重豪の娘で、子宝に恵まれ、しかも長寿だったからだ。しかも嫁になってからの名は「篤姫」だった。だから験をかついで、同じ「篤姫」を名乗るようになったのだ。

篤姫が嫁いだときには、すでにペリーの2度の来日後。日米和親条約調印も終え、家定は将軍としての重責を果たしたあとだった。

夫婦となった家定と篤姫の仲は睦まじく、周囲は世継ぎを期待していた。

だが、ふたりのあいだに赤ん坊ができる気配すらなかった。

当時、家定が大奥に行くのは月にわずか2、3度。しかも正室篤姫よりも側室お志賀のところに行くほうが回数が多かった。お志賀が嫉妬深かったからだ。

そもそも家定は生来病弱で、癇癖だった。脳性麻痺だったのではないかという説もある。

駐日総領事ハリスに江戸城で引見したときには、言葉を発する前に、頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすようなしぐさをしたという。