生き残ったもん勝ち。
勝海舟を見ていると、そう思う。
よく、「歴史は勝者によって作られる」と言われる。明治政府においては海軍大輔(かいぐんたゆう)、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任し、「ご意見番」として一目置かれる存在だったとはいえ、幕臣だった海舟は、しょせん「負け組」だ。
にもかかわらず、幕末でいちばん著名な幕臣としてその名を留めているのは、西郷隆盛との江戸無血開城談判で江戸を戦火から守ったことによるものだけではない。『氷川清話(ひかわせいわ)』をはじめ、多くの「ナマ」の証言を残してくれているからだ。事実、多くのジャンルの人物と交遊をもっていた海舟の話は、その「べらんめえ」な江戸っ子口調も手伝って、心地よい。老人の自慢話にも似たところもあるので、少し割り引いて見なければならない部分もあるが、貴重な証言であることに変わりはない。
天璋院(てんしょういん)(篤姫)との交遊話は『海舟語録』などに散見される。
はじめて海舟が天璋院に会ったのは、鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜が敗れ、江戸に逃げ帰ってきた直後のことだった。
天璋院を薩摩に帰すという話が持ち上がった。だが天璋院は大奥から出ていく気は毛頭ない。「もし無理やり出すようなことがあったら自害する」と言って、昼も夜も懐剣を離さない。お付きの女中たちもいっしょに自害すると騒いでいる。そこで海舟が出向くことになった。
いざ、海舟が大奥に顔を出すと、目の前に女中だちが、ずらりと並んでいる。
天璋院がいない。海舟が「どうかなさいましたか」と問うが、みな押し黙っている。しばらくすると、女中の中から、ひとりが出てきた。
――「それが天璋院サ。かくれて、様子を見たものだネ」
海舟は、天璋院相手に腹を割って話しはじめた。それでも女中のひとりが「死のうと思へば死ねます」と言う。海舟のトドメの一言は、こうだ。
――「天璋院が御自害を為されば、私だって、済みませんから、その傍で腹を切ります。すると、お気の毒ですが、心中とか何とか言はれますよ」