これを聞いて、さすがの天璋院も、さすがに心中は恥だと思ったのだろう。「明日もいらして下さい、まだ伺ひたいから」と態度をやわらげた。それから海舟は大奥に3日間通って、天璋院の怒りを冷ませることに成功する。
失敗をしでかして怒っている取引先のもとに出向いて、腹を割って話をすることで鉾(ほこ)を収めてもらうようなものだ。
以後、海舟と天璋院の交遊は続き、明治に入り(詳細な期日は定かでない)、天璋院と静寛院宮(和宮)が海舟の家に遊びに来たときのこと。
海舟は、ふたりに膳を出した。だが女中が困り顔でかけこんできた。海舟が「どうした?」と問うと女中が言った。「両方で給仕をしようとしていてにらみ合っているのです」。海舟が座敷に顔を出して「どうしたというんです?」と訊くと、おたがいに同じことを言う。「わたしがお給仕をしますのに、あなたが、なさろうとするから……」。海舟は笑って、お櫃(ひつ)をふたつ用意させて提案した。
――「サ、天璋院さまのは、和宮さまが為さいまし、和宮さまのは天璋院さまが為さいまし、これで喧嘩はありますまい」
これを聞いてふたりは「安房(あわ)(※勝安房守だったから)は利口ものです」と大笑いし、1台の馬車で帰った。以後、天璋院と静寛院宮はたいへん仲良くなった、と海舟は自慢する。
また海舟は、料亭「八百善」などに天璋院を案内して「下情(かじょう)を見せた」と自慢を重ねる。ここまで自慢されると、はい、さようですか、と言うしかない。
歴史は生き残ったもん勝ちなのだ。