藤原道長は実姉の子(一条天皇)に娘を嫁がせ、その息子(後一条天皇)にも三女を嫁がせた。歴史学者の保立道久さんは「一条・後一条・後朱雀の三代にわたり正妃に娘をあてた道長の閨閥は、生物学的にみても異様だが、王家と道長の家族はほとんど融合し、道長は王権中枢を占拠した」という――。

※本稿は、保立道久『平安王朝』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

後一条天皇を出産したときの彰子(右)とその母・倫子(左)、道長
後一条天皇を出産したときの彰子(右)とその母・倫子(左)、道長(画像=「紫式部日記絵巻断簡」/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

9歳の後一条が即位し、三条天皇の嫡男・小一条は皇太子に

1016年(長和5)、三条天皇に変わって即位したのは、後一条天皇(9歳)。皇太子は三条の子ども、小一条(23歳)。摂政は天皇の外祖父の道長。道長はこれまで内覧の地位にあったものの、摂関の位についたことはなかったが、ここに名実ともに権力を確立したのである。

栄花物語』は、三条の大嘗会だいじょうえ(編集部註:皇位即位後、初の新嘗祭)に奉仕した道長が、「こと限りあれば〔物事の決まりからいって当然とはいえ〕」、天皇の御輿に徒歩でしたがうありさまを、「なぞの帝にか、かばかりめでたき御有様にこそと見たてまつり思ふに〔道長の方がどの帝よりも立派にみえるのに〕、口惜しふこそ」と述べているが、その三条を譲位に追い込んだ道長は、実質上、王権を占拠するにいたったといってよい。

そして、1017年(寛仁1)、三条が死去すると、のこされた皇太子=小一条は、「小一条院」という院号によって前天皇の待遇をうけることを条件にして、自身で皇太子の座を下りた。道長は、小一条に対して皇太子守護の王章(レガリア)である壺切つぼきり御剣を渡さず、陰に陽に圧迫をくわえていたが、融和の印として小一条院に娘の寛子ひろこを配し、それにのった小一条院は旧妻の藤原顕光の娘の延子のぶこを見放したという。

彰子の第二子が皇太子になり、道長の権力基盤が完成

小一条院の代わりの皇太子は、後一条天皇の弟、やはり彰子腹の道長の外孫=後朱雀ごすざくであった(9歳)。ここに安和の変の結果発生した円融・冷泉の両王統の迭立は解消し、王統は「平和的に」10歳の後一条天皇と道長のもとに統一されたのである。そして道長は翌1018年(寛仁2)、11歳の後一条天皇の嫁に、自分の娘=威子たけこ(後一条の叔母にあたる。20歳)を配し、10月には中宮に立后する。その宴席で詠んだのが次の和歌である。

此世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしとおもへば
(藤原道長、『藤原実資日記』)

そして、この年の年末には、先に『源氏物語』執筆の背景の一つであったと想定した、(一条天皇の皇后)定子と一条の忘れ形見、一時は皇太子と目された敦康親王が死去する。「たびたびの御思ひ違ひて、世の中を思し嘆き」ながらであった。

小一条院の廃太子のときには、ふたたび敦康の立太子の可能性がささやかれたというが(『大鏡』)、その死去は少なくとも道長にとっては伊周・定子問題を過去のものにした。道長の完全勝利である。王統統一の実現者という条件のもとに、ここに道長は、天皇制史上、空前絶後の権威を確保したのである。