大河ドラマ「光る君へ」(NHK)で描かれた藤原道長と三条天皇の対立は、史実の方がもっと泥沼だった。保立道久・東京大学名誉教授は「三条天皇の最初の妻が密通事件を起こし、妊娠を疑った天皇に頼まれた道長は、妻の胸を引きあけて乳房を検分した。その後も、天皇の愛妻より自分の娘を先に中宮にするなど、道長の強引なやり方に天皇は激怒した」という――。

※本稿は、保立道久『平安王朝』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

三条天皇像
三条天皇像(画像=『百人一首画帖』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

長すぎた皇太子時代、36歳で即位した三条天皇の悲劇

1011年(寛弘8)、一条天皇は32歳で死去する。かわって即位した三条天皇は36歳。三条の皇太子には、(編集部註:亡き皇后)定子を母とする年長の敦康親王をさしおいて、(中宮であった)彰子を母とする後一条が立つ(4歳)。このとき、彰子が父の道長に敦康を推薦したことは事実と思われ(『栄花物語』)、それを拒否した道長に対して、彼女は「怨み」を隠さなかったと伝えられる(『藤原行成日記』寛弘8年5月)。

しかし、一条と道長は、新天皇=三条との関係を顧慮せざるをえなかったはずである。三条は、一条が定子・彰子との後宮をいとなみ、道長が権力の座に駆けあがってくるあいだ、約25年間、年上の皇太子という立場に置かれていた。「老東宮」「さかさまの儲けの君〔儲君=皇太子〕」である。

愚管抄』は、三条が「当今とうぎん〔現天皇〕病い、待ちつけてをはしませば」と述べているが、三条は容貌が外祖父兼家にそっくりで、心ばえが「なつかしう、おいらか」なところがあり、「世の人いみじう恋ひもうす」という人物であったという(『大鏡』)。

最初の妻は源氏と密通、妊娠しているか道長が乳房を調べた

しかし、その生涯はこれまで不運続きであった。まず最初の妻の綏子やすこ(兼家の娘)は源頼定よりさだ(安和の変の被害者である為平ためひら親王の子)との密通事件をひきおこしている。妊娠の噂を聞いた三条に頼まれた道長が、綏子の胸を引きあけて乳房を検分し、三条がやりすぎだと不快に思ったというのは有名な話である(『大鏡』)。

この事件のしばらく前、995年(長徳1)には、三条は、二番目の妻の娍子すけこの父=済時なりとき、三番目の妻の原子もとこの父=道隆の2人を亡くしている。この2人のうち、娍子は小一条を産んでいるが、原子は子どもを生まないまま、1002年(長保4)、23歳の若さで死去している。

とくにまがまがしいものを残したのは、立太子以来、三条の侍臣として春宮権亮とうぐうごんのすけ・春宮権大夫を16年間にわたって勤めてきた藤原誠信さねのぶ(道長の叔父の為光の長男、花山女御=忯子の兄)の死に方であった。彼も道隆のみ仲間であったようで、道隆の邸宅で酔態を演じたという話が残っているが(『大鏡』)、道長の評価が低く、1001年(長保3)、弟の斉信ただのぶに中納言への道を先に越されて怒りのあまりに自死した。誠信の恨みは凄まじく、除目じもく(人事発表)の朝から、道長らにはめられたと狂いたち、7日後に死ぬと「盟言うけいごと」して絶食し、手の爪が甲に突き通るほど握りしめてうつぶしたまま、予言通りに死んだという(『大鏡』『藤原行成日記』)。