大河ドラマ「光る君へ」(NHK)では紫式部が夫ではない道長と密通して子をもうける展開に。歴史学者の服藤早苗さんは「10世紀初頭まではフリーセックスの時代、つまり多妻多夫で、女性も複数の男性と関係を結べたが、『源氏物語』が書かれた頃には、妻の性が夫によって独占されるように。そんな中、紫式部は、男性優位社会においては対等な男女関係が結べないことを描いた」という――。

※本稿は『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 光る君へ〈紫式部とその時代〉』(NHK出版)の一部を再編集したものです。

京都市の宇治橋にある紫式部像
撮影=プレジデントオンライン編集部
京都府宇治市の宇治橋にある紫式部像

紫式部は「結婚幻想にとらわれぬリアルな眼」をもっていた

「どんなに男と女が主観的に愛し合っていても、男女が分断されている社会構造と文化形態、生活様式の中ではどうしようもなく、いすかのくちばしのくいちがいになってしまうことを描ききっている。が、このような描写は、結婚幻想にとらわれぬリアルな眼がなければ、なしえない」(『紫式部のメッセージ』)

30年以上前、フェミニズムの視点で『源氏物語』を批評し、「一千年前のフェミニストであった紫式部」のメッセージを読み取った、フェミニズム批評の先駆者、駒尺喜美氏のメッセージである。その文章中にある「紫式部は同性愛だった」との指摘にはいささか疑問符をもちつつも、目からウロコの衝撃だった。しかし、当時の日本文学研究者の方々に感想を聞くと、男女とも首を傾ける人が多かった。いわばスルーだったと思う。

平安時代、漢字は真名まな男手おとこで、平仮名は仮名かな女手おんなでと呼ばれた。男手・女手の初見は、10世紀後期に成立していたとされる『宇津保うつほ物語』で、皇太子が手本をみて「男手も女手も習った」と出てくる。男性が女手を書くのだから、女手は「生物学的女が書く字」のことではない。『源氏物語』では、光源氏も女手を書いている。まさに、男手、女手は、当時の貴族たちが決めた記号、ジェンダーである。

国宝「紙本著色紫式部日記絵巻」(五島美術館蔵)、鎌倉時代
国宝「紙本著色紫式部日記絵巻」(五島美術館蔵)、鎌倉時代〔筆=藤原信実(絵)と九条良経(書)の作とされる/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「女手」と呼ばれた平仮名は、女性だけが書いたわけではない

男は、漢字で公的文書や日記・漢詩などを書き、和歌や手紙は、仮名で書く。では、女性は漢字で書かれた漢籍や書を学び、書かなかったのか。『源氏物語』の作者、紫式部は、弟の惟規のぶのりが父為時ためときから漢籍の素読を学んでいた時、かたわらで聞いていた紫式部の方が先に覚えるので、父が「お前が男だったらなあ」と嘆いた話は有名である(『紫式部日記』)。

紫式部は当時の男性が読むべき漢籍は、ほぼすべてマスターしていた。『源氏物語』に漢籍を基にした文章がちりばめられている。しかし、女房生活では、一条天皇が『源氏物語』は「日本紀にほんぎ」(日本書紀)に通じていると誉めたため、「日本紀の御局みつぼね」とあだ名されたので、「一」という文字も書けない振りをした。

紀貫之きのつらゆきは、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」と仮名で『土佐とさ日記』を書いた。このように男は男手・女手を用途におうじて使っていたのに、女は、漢字・男手から遠ざけられていた。あるいは、男手を知らないふりを装わねばならなかった。