「物の怪」が生まれるのは、人の心にやましい考えがあるから
そのうえ、紫式部は、人の心を見抜く力、人間観察力、洞察力は鋭い。『紫式部集』にのる歌である。
物の怪のついた醜い女の姿を書いた背後に、鬼の姿の先妻を小法師が縛っているさまを描き、夫はお経を読んで物の怪を退散させようとしている場面の絵を見て
(妻についた物の怪を、夫が亡くなった先妻のせいにして手こずっているのも、実際は自分自身の心の鬼に苦しんでいるということではないでしょうか)
当時の男性の日記にも頻繁に出てくる「物の怪」「鬼」などは、人の心の中にやましい考えがあるからだ、鬼がすんでいるからだ、と見抜いている。『源氏物語』では、光源氏の正妻の葵の上が病気で亡くなった時、愛人の六条御息所が、無意識のうちに葵の上に嫉妬していた心の底の魂、いわば深層心理が、生霊となって飛んでいき、葵の上を打ち殺したのではないか、と思い悩む場面など、まさに、各々の心の底にひそむ鬼の描写である。しかし、当時の読者たちは、生霊が現実にあり得ることとして読んだのであろう。
10世紀初頭までは多夫多妻で、女性も自由恋愛ができた
ところで、漢字・真名を男手、平仮名を女手と命名したのは誰か。「唐絵」と「やまと絵」の対にならって、漢字は「唐字」、平仮名は「やまと字」と命名・呼称してもよかったではないか。男手・女手は、10世紀後半が初出だった。この頃の歴史的社会背景、とりわけ貴族社会に理由がありそうである。
貴族社会では、朝廷の役職や身分などが、父から息子へと継承される家が成立し始める。自分の官職や財産などを継がせる確実な息子を得るためには、妻が夫以外の男性と性関係を結ぶことを禁止する必要がある。10世紀初頭の『伊勢物語』などには、人ヅマと性関係を持つ話がいっぱいのっており、非難されていない。
「ツマ」とは、男女ともに愛しい相手を呼ぶことばであった。いわば多夫多妻、いわばお互いにツマを何人かもっていた。ところが、10世紀後期頃からツマは妻、女性だけの呼び名になっていく。「人妻」は今でも使われるのに、「人夫」はない。ちょうど、この頃から、貴族層に結婚儀式が定着しはじめる。結婚式をあげ、この女性は僕の妻になったのだから手を出すな」と、告知する。夫による妻の性の独占であり、男性優位社会のたしかな到来である。