三条天皇の近くには、道長の兄・道隆の関係者が多くいた

以上のような経過のなかでめだつことは、道隆の娘=原子が入内していたことを中心として、三条の周辺には道隆時代の宮廷の影響が強いことである。従来、道長の時代の政争というと、主に伊周これちか・定子問題、定子と彰子のあいだの後宮争いのみを主なものと考える傾向があるが、それだけでなく、皇太子三条の位置の問題と公然・非公然に結びついていたのである。

もちろん、道長も、三条を放置していたのではなく、1007年(寛弘4)には、長男の頼通よりみちを東宮権大夫とし、一条天皇の死去の前年、1010年(寛弘7)には、17歳になった二女の妍子よしこを皇太子=三条の室に入れている。妍子の入内年齢が通常の例より少なくとも2年は遅かったことには、何らかの事情が想像されるものの、道長も兼家・道隆と同様に、円融系・冷泉系の両王統に娘を配すという伝統的な方策をとったのである。

しかし、三条と道長の疎遠な関係は否定しがたい。三条の東宮庁の中心人物は、失脚前の伊周(東宮傅)、そして誠信であった。そして、藤原顕光あきみつ(東宮傅。兼通の子ども)、藤原通任みちとう(東宮権亮。済時の息子、娍子の兄弟)が、『藤原道長日記』で「無心」「不覚者」「白物しれもの」などと罵られており、東宮大夫・傅を歴任した藤原道綱が長男の嫁に伊周の弟=隆家の娘をとっていることも重大である。隆家もいつの時点からか、三条の近臣となっているのである。さらに、綏子と密通した源頼定が長徳2年の伊周配流に連座して勘当されていることも、注意を引く(『藤原実資日記』)。

道長は次女の妍子を天皇に嫁がせ、関係を築こうとしたが…

以上を勘案すると、定子の子ども=敦康の立太子は、彰子の後押しがあったことと同時に、三条の側から期待されたものであったことがあきらかだろう。譲位の遺言にあたって、皇太子の選にもれた敦康の世話を頼んだ一条天皇に対して、三条が「仰せ無くとも、奉仕すべき」むねを答えたのは(『藤原道長日記』)、自分に縁の近い皇太子をえる期待を裏切られたことの表現と考えるべきである。

伊周は一条の死去の前年に死去してしまったが、『大鏡』によれば、弟の隆家が、三条と相前後して一条に面談しており、そこで敦康の立太子は無理だといわれた隆家は、「〔一条に対して〕あはれの人非人や」とこそ申さまほしくこそありしか〔なんとびどい人だ、といいたくなった〕」と述懐したという。隆家は敦康の排除の責任がもっぱら道長にあるとは、考えなかったのである。

【図表1】天皇家と道長・頼道の婚姻関係
太線で囲った人物は天皇、数字はこの図版内での即位順。細線で囲った人物は道長の娘。角田文衛『王朝の残影』掲載の系図を基に作成。(出典=『平安王朝』)