政宗は本当に無抵抗の1000人を「撫で切り」にしたのか
・伊達政宗は満17歳で伊達家の家督を継ぎ、米沢城主に
・自分に人質を送らず、会津の蘆名氏についた大内定綱に激怒
・現在の福島県二本松市にあった大内氏の小手森城を攻め落とす
・「城内の千人以上、犬まで斬った」という書状を残す
戦国武将の運命を決めた城。今回は奥州の若き伊達政宗が裏切り者と戦ったとき、城兵を残らず撫で斬りにしたという逸話から、戦国武将の矜持と覚悟を見ていきたい。
天正13年(1585)閏8月24日、戦国武将の伊達政宗は、陸奥国安達郡塩松の大内定綱の支城・小手森城を攻めた。
政宗19歳、定綱40歳の時のことである。
27日、政宗は、小手森城を陥落させたが、その時に無抵抗の人々はもちろん動物まで大量虐殺したという話が「史実」として周知されている。
しかし政宗は本当に多数の人を殺害させたのだろうか。政宗の所業が真実か否か、手がかりは少ないが、可能な範囲で確認を進めていきたい。
裏切りに次ぐ裏切りを重ねてきた大内家の討伐を決定
前年(1584)冬、大内定綱は伊達家の家督を相続したばかりの若き政宗のもとまで出向いて、「この米沢城に我が屋敷を賜り、ぜひとも妻子を住まわせたい」と臣属を誓ってきた。
まだ若い政宗も心を許しただろうが、大内家の当主は要注意人物であった。父の代に主君たる石橋家を裏切ってその居城・小浜を奪い取り、田村家に転属した。次に二本松の畠山家に転属して、さらに蘆名・佐竹連合陣営に鞍替えして、畠山家と争った。
その大内定綱が家族を人質に差し出すという申し出は、蘆名家の動向を警戒する伊達家にとって渡りに船であった。
ところが定綱は、なかなか約束を果たそうとしない。
妻子をはこちらに引っ越すと言って、そのまま連絡すら寄越さずにいたのである。政宗は父・輝宗に、定綱の背後にある蘆名家を攻めるべきかを相談した。
その結果、やはりまず肝の座らない大内定綱の態度をはっきりさせることから始めるべきだと、大内討伐を決定したのである。