長女・彰子の産んだ皇子たちに三女と四女を嫁がせた
道長が三条との権力闘争と小一条院の引き下ろしをきわめて巧妙に仕組み、いわゆる「穏便な」雰囲気をよそおうのにたけていたことは、その過程を記録した『藤原道長日記』のそっけない筆致にあきらかである。そして、このような道長の「平和的な」覇権を支えたのは、さまざまな偶然と幸運であったが、そのとき、つねに最後の手段として利用されたのが、道長の家族、男女の子どもたちであった。
1018年(寛仁2)、威子立后の「望月の歌」を詠んだとき、道長は53歳。図表1に示したように、子どもたちのうち、まず
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