中国の西安を訪れた観光客が、必ず立ち寄る世界遺産に「兵馬俑」がある。
秦の始皇帝を守るために作られた等身大の兵士軍団の像を目にして、圧倒された方も少なくないのではないだろうか。
しかし、これほどの威容を誇った強力な秦王朝が、なぜ2代目であっけなく倒れてしまったのだろう。
この連載では、中国史における屈指のライバル、項羽と劉邦の対決を取り上げていくのだが、冒頭の今回は、その大元ともなった、秦王朝の崩壊理由について取り上げてみたい。
前221年、秦は強大な軍事力を背景に、約550年も続いた戦乱の時代を統一した。これは日本でたとえれば、室町時代から現代まで続く戦乱状態を平定した、という驚くべき偉業だったのだ。
しかも、隣国の韓を併合してから、最後の斉を滅ぼすまで、その間たったの10年。ほとんどの国を軍事的に叩き潰して併合している。秦の実力はまさしく他を完全に圧倒していた。
ところが、皮肉にも、これが秦崩壊の1つの引き金になってしまう。
この統一劇を、漫画の『ドラえもん』にたとえてみよう。力の強いジャイアンである秦が、周囲を次々とぶん殴って言うことを聞かせてしまった、こんな形になるのだ。しかし、このやり方では、当然周囲から怨みを買うし、復讐心を抱かれるようにもなってしまう。
この結果、勃発したのが、前209年の「陳勝呉広の乱」だった。秦王朝の過酷な法の支配に耐えきれなくなった陳勝と呉広が叛乱を起こすと、各地の勢力が呼応、次々と滅ぼされた六国が再建されていった。
だが、秦王朝崩壊の1番の疑問はここから生まれてくる。なぜ秦の精強な軍団が、これを鎮圧できなかったのだろう。
歴史的に見ても、統一王朝ができたあと、叛乱が起きるのは決して珍しい現象ではない。周王朝の「三監の乱」、漢王朝の「呉楚七国の乱」、清王朝の「三藩の乱」……。
秦王朝の場合、1番ネックとなったのが、軍や組織を率いる人材の払底だった。この遠因を作ったのが、誰あろう始皇帝だったのだ。