ジャンルを問わず、実力の傑出している者の陥りがちな落とし穴に、「無暗に敵をつくってしまうこと」がある。それどころか、作ってはいけないライバルを自ら育んでしまうケースさえあるのだ。項羽は、まさしくその1人だった。

前209年の「陳勝呉広(ちんしょうごこう)の乱」をきっかけに、各地で叛乱が続発するのだが、やがて天下の形勢は、「秦vs復興された昔の国々」という図式に固まっていく。

もし、ある支配体制を変えたい、と思ったのなら、1番わかりやすい解決策は、ひとまず昔の形にもどしてみることだ。秦に対する叛乱の場合も、楚(そ)、斉(せい)、韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、燕(えん)といった戦国時代の国々が次々と復興され、全体のまとめ役として楚の懐王(かいおう)という人物が担ぎ出された。

叛乱軍の現場を仕切る立場にいた項羽にとって、実はこの体制は、人々の支持を得るためのお飾りに過ぎなかった。懐王にしろ、王族の末裔とはいえ、もともと羊飼いをしていたような人物。傀儡(かいらい)で民心を得ておいて、後は実力で天下を……、そんな思惑が彼にはあったのだ。

ところがこの懐王が、なかなかの曲者だった。お飾りで終わってなるものかと次のようなお触れを将軍たちに出す。

「秦の都である関中(かんちゅう)を真っ先に攻略したものを、関中王(秦の王)とする」

先ほども述べたように、秦以外の土地には、すでに王がいる。しかし、秦だけは違う。秦を滅ぼせば、土地はまだ空くのだ。ならば、その都に1番乗りした者を王にしてやるぞ――。

このエサに飛びついたのが、劉邦だった。彼は、実の両親の本名さえ歴史書に残されていないような貧しい生まれの男。「そんな俺でも、王になれるかもしれない」という思いで、勇んで秦の本拠地である関中の攻略に向かった。

つまり劉邦は、あくまで一地方の覇権を握ることが望みだった。この意味で、項羽と劉邦とは抱く志も違い、ライバルになりようがなかったはずなのだ。

ところがこの展開、項羽にとっては許せなかった。秦を倒した暁には、自分が天下を差配しようと思っていたのに、余計な真似をしおって……。

やがて劉邦が関中に1番乗りし、王の名乗りをあげようとしたとき、項羽は大軍勢を率いて待ったをかける。