また父で12代将軍家慶の看病をしたときには、作った粥に指をつっこんで温度を計ったり、粥を食べる様子を障子の穴から覗くという奇妙な行動を見せることもあった。
また料理が趣味らしく、豆を煎るのに凝ったり、豆を煮たり、芋をふかしたりしては周囲に勧めたことから、松平春嶽などは「イモ公方」と呼んでいた。
だが篤姫の実家から送られた黒砂糖を使ってカステラを作り、彼女に食べさせたりした。父親の看病の話もそうだが、かなり心やさしい人物だった。
それでも、いつまで経っても世継ぎができなければ周囲は焦る。
結果、史上有名な将軍継嗣問題が起き、一橋慶喜と紀州慶福が最終候補に残ることになる。
家定は個人的に慶喜を嫌っていた。理由はただひとつ。
「余よりも美男子だからじゃ」
肖像画を見るかぎり家定はイケメンなのだが、幼いころの病が原因で目のところに痣があり、コンプレックスを抱いていたともされる。
その家定も、世継ぎが慶福(のち14代将軍家茂)であると発表した直後の安政5年(1858)7月6日に急死する。喪を発したのは8月8日。享年、数えの35。人生これからというときだった。
死因は、持病の脚気が悪化したとも、当時流行していたコレラが原因とも、毒殺ともいわれる。
篤姫が輿入れして、わずか1年7カ月足らずのことだった。
赤ん坊に恵まれなかったものの、ふたりの仲は良かった。ちょっと変わったところのある家定だが、篤姫はおそらく、夫のマイナス面ばかりを見るのではなく、料理好きなところなどを認め、母性愛をもって接していたのだろう。オタクな夫の趣味を応援してあげるようなものとでも言えばいいだろうか。