江戸在府中、西郷は徳川斉昭へ密書を届けたり、越前藩士橋本左内の訪問を受けるなど、「庭方役」として職務を全うしていたのだが、もうひとつ重大な役目を仰せつかる。

篤姫の輿入れ準備だ。

じつは篤姫の輿入れは政情不安で延び延びになっていた。

斉彬一行が鹿児島を発った5日前の1月16日にペリーが浦賀に再来航、江戸に到着した3日前の3月3日に日米和親条約締結、と幕府は篤姫を迎える準備どころではなかったのだ。おまけに安政江戸地震まで起き、まさに「てんやわんや」だった。

それでも篤姫の江戸城入りが安政3年11月11日に決まったため、西郷は篤姫の「嫁入り道具」一式を揃える大役を任されたのだ。斉彬は「カネに糸目をつけるな」と命じた。薩摩藩77万石のメンツにかかわることだった。西郷のストレスは想像するに余りある。

渋谷の薩摩藩下屋敷から江戸城まで、輿入れの行列が続き、先頭が江戸城に入っても、最後尾はまだ下屋敷を出ていないほどだったという。西郷が調達した品々すべてが江戸城に運び込まれるのに2カ月かかったとされる。

斉彬が篤姫の輿入れ準備を西郷に任せたのは、なぜか。

西郷の「人となり」だ。部下としてだけでなく、人として評価していたからこそ任せたのだ。そもそも評価していなければ、庭方役に任命されることもなかったはずだ。

この郡方書役から庭方役への「人事異動」により、西郷は薩摩国内のみならず、日本じゅうに人脈を築いた。それがやがて明治維新の原動力となったわけだから、人生、どこでなにが起きるかわからない。