3千本の報告書「技術探題」の蓄積

<strong>榊原定征</strong>●さかきばら・さだゆき 1943年、神奈川県生まれ。67年、名古屋大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了、東洋レーヨン(現東レ)入社。94年経営企画室長、96年取締役、99年専務、2001年副社長、02年社長。10年より現職。
東レ会長 榊原定征●さかきばら・さだゆき 1943年、神奈川県生まれ。67年、名古屋大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了、東洋レーヨン(現東レ)入社。94年経営企画室長、96年取締役、99年専務、2001年副社長、02年社長。10年より現職。

経済のグローバル化が進み、中小企業も海外で事業を展開する時代になった。だが、多くの日本企業が、海外の子会社や工場の運営に、弱点を持つ。世界各地それぞれにふさわしい経営者が足りない、と嘆く。

でも、考えてみれば、そんなに難しい問題ではない。日本人社員を送り込み、経営させようとするから、いけないのだ。東レは、現地の人を社長にするなど韓国で確立した「4つの基本方針」で、成功した。

1990年11月、ソウルの空港に降り立つ。韓国を訪ねるのは、47歳にして初めてだった。東レの韓国代表が迎えてくれ、「よく来てくれました。あなたが、今年、東レからやってきた2人目です」と言った。それを聞いて、「おや?」と思う。東レと韓国は、日本企業の中では結びつきが強いはずだ。それにしては、往来が少ない。胸中に、灯りのようなものがともる。

韓国での事業は、60年代、ナイロンの生産技術の供与で始まった。70年代にはサムスングループ、三井物産と3社で繊維の会社を設立、ポリエステルフィルムへ拡大した。自身は、88年に経営企画室へ異動するまで、韓国と縁はない。だが、経営戦略を練る部署に入って、一気に身近な存在となる。様々な事業展開を探るなかで、初めて訪韓した。東レとサムスンのトップ同士が毎年2回、会談することになると、常に社長に同行して参加した。

どんな事業なら、一緒にやりたいか。原料や製品の流通で、協力ができないか。研究開発や人材育成で、もっと交流ができないか――トップ会談は、ざっくばらんだった。聞いていて、ソウルの空港でともった胸中の灯りが光を増した。「もっと、東レと韓国との縁を、しっかり固めたい」。あるとき、サムスンのトップが「東レの持つ半導体の実装技術がほしい」と言った。グループ会社で事業化したいという。即座に「一緒にやりましょう」と提案する。

その実装技術は研究段階で、社内ではあまり知られていない。でも、社長直属の経営企画室に技術陣の代表として呼ばれた身だ。小さな研究グループが手がけていた技術でも、つかんでいた。すぐに、半導体素子のテープ加工とそれを実装する2つの合弁会社の設立へと動く。新会社の立案と交渉を、一人でこなす。交渉は、すべて英語だった。

74年秋から3年余り、ニューヨークに「技術探題」として駐在した。日本中が、米企業の情報に飢えていたころだ。毎週、新事業や研究のタネを探して、大学や企業を回る。家族を同伴して赴任していたが、出張が続き、ホテルやモーテルに泊まった夜が3年間で330日にも達する。その間、日本向けに書いた報告が3000本。当然、技術の知識だけでなく、英語も鍛えられていく。

半導体関連の合弁2社は95年にできて以来、黒字が続く。一方、繊維とポリエステルフィルムの会社は苦境に陥った。サムスン側が主導してオーディオ・ビデオ(AV)のテープへ進出したが、デジタル化の大波に見舞われて火の車。97年、アジア通貨危機に端を発した韓国経済の深刻化でお手上げとなり、東レに買い取ってほしいと言ってきた。

韓国との縁は、大事にしたい。そこで、買収案を経営会議に出す。だが、「AVテープに、将来はない」「繊維のほうも、韓国市場の惨状では先行きが厳しい」と、フィルム事業の担当役員を筆頭に猛反対した。最後に、社長が「みんなが反対するなら、しょうがないよ、榊原さん」と結んだ。買収案は、否決される。

でも、諦めない。苦境の合弁会社は、最新鋭のフィルム工場を建設していた。韓国側の交渉役だった工場長と、新工場をIT分野向けに生かすことを議論する。液晶など薄型ディスプレー用に使えば道は開ける。そう確信した。2カ月後、再び買収案を経営会議にかけた。「新工場の最新鋭技術を東レグループに組み入れれば、東アジアでIT分野向けのフィルム事業が展開できる」などと説き、今度は反対論を押さえ込む。買収案は、可決された。

すると、猛反対していた役員が立ち上がり、「おめでとう。これからは、僕もキミに協力するよ」と言った。大議論して、ときには、ぶん殴ってやりたいとまで思った相手だ。闘うときは必死でぶつかるが、終われば、敵も味方もない。ラグビーで言う「ノーサイド」の企業文化だ。涙が出るほど、うれしかった。