「バクダン」交わす理七情三の指名

買収が完了し、事業は東レの子会社に変えて再出発する。ここで、冒頭で触れた「4つの方針」を明確にした。(1)短期の利益を追求せず、長期的視点で韓国の産業振興などに寄与する(2)合弁事業の親会社のトップ同士が、長期にわたって信頼関係を継続する(3)優秀な韓国人を経営者に指名し、経営を委ねる(4)労組にも経営情報を開示し、信頼関係を築く。

方針通り、新会社の社長に、韓国人を指名する。買収後にどんな事業を展開すべきか、話し合った工場長だ。サムスン側は別の幹部を提案したが、断った。工場長は合弁会社の発足時からいて、すべてを知り尽くしている。新工場の技術にも通じている。何より、買収とともに移籍してくる450人の従業員たちの気持ちが、誰よりもわかっていた。

「用兵之道、攻心為上、攻城為下」(用兵の道は、心を攻むるを上(じょう)となし、城を攻めるを下(げ)となす)――戦いでは、相手を心服させることのほうが、相手の城を攻略するよりも優れた策だ、との意味だ。『三国志』で、諸葛孔明が南方の異民族を平定するとき、参謀が具申した言葉。孔明はその言を聞き入れ、捕らえた異民族の首領を7回も解き放し、ついに心服させた。力ずくで押さえ込むよりも、心を通じ合うことが成功への道。榊原流の現地社長選びも、この精神と相通じる点がある。

工場長は、韓国を訪ねるたびに、ビールにウイスキーか焼酎を混ぜた「バクダン」を飲んだ仲だ。苦労もともにして、人柄もわかっている。新社長への指名を「理七情三」と言う人がいたが、そうかもしれない。

取締役になった96年。55歳を迎えた部下が規定で退職出向となり、子会社へ出ることになった。送別会を開くと、本人がピアノ上手で『月光』を弾いてみせた。だが、送る側からは、何の芸も出てこない。「義をみてせざるは勇無きなり」ではないが、それではいけない。伴奏なしで『惜別の歌』を歌った。

「遠き別れに耐えかねて この高楼(たかどの)に登るかな 悲しむなかれわが友よ 旅の衣をととのえよ」――島崎藤村の歌詞が好きで、全部、覚えていた。何もなくても歌える。でも、感極まって涙が出そうになり、声が詰まって歌いきれなかった。恥ずかしかったが、やはり、情の人間でもある。

世界中で、経営環境の変化が激しい。常々、環境変化こそ経営戦略の一歩につながると考えている。地球温暖化と原油価格の高騰という環境変化は、多くの製造業の背中を電池分野へと押した。東レも今年2月、リチウム電池の内部に使う特殊膜の営業活動を始めた。米石油大手の子会社と折半でつくった会社が、先兵となる。生産拠点は栃木県と韓国。半導体と同様に、電池でも、韓国勢が日本勢を抜きつつある。中国の台頭もめざましい。事業買収でつくった韓国子会社は、その中国に拠点をつくっている。

6月、社長の座を譲って会長となった。ただ、CEOの肩書は保持した。別に、新社長に指図しようというのではない。後任がグローバルな環境変化への対応に慣れるまで、ちょっとの間のことだけだ。1年もたてば、社長が自分をうまく使うようになる。そのころには、前号で触れた東レの炭素繊維をふんだんに使った「黒い飛行機」が、日本の空を飛んでいる。ゆっくり乗り心地を味わう時間が、できているはずだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)