出発点は2001年の東京モーターショー。カルロス・ゴーン日産CEOは、“スカイライン”の名で絶大な支持を得てきたGT-Rブランドの復活を宣言した。
しかし、水野の思考はまったく別の次元にあった。その頭の中で、すでに“新GT-R”は出来上がっていた、という。
「俺ならこうつくる、と最後のネジ1本までできてた。今起こってることは、俺が当時考えてたことにすぎない」
常に構想を練って、あらゆるニーズに即座に応える。常にゴールが見えているのがプロ……水野の矜持である。
ところが、開発責任者への就任要請を水野は断った。過去のシリーズの延長でしかないその要請は、受け容れ難かった。復活宣言の際の「グローバルスーパーカーを」というゴーンの一言――スカイラインの名をあえて外し、まったく違う次元に踏み出そうとしているその意図からは程遠いものに思えたという。
「君をミスターGT-Rとして任命した」
「競合相手が、国内からフェラーリやポルシェやランボ(ルギーニ)に変わったんだよ。もう演歌や浪花節のGT-Rじゃダメ。ゼロから新しく出発しなければならない、とてつもなく高いハードルだと俺は理解した。なのに、単に時期がきたからという理由だけで『つくってよ』って言われたらカチンとくるよね」
水野は03年1月、市販車の開発から離れ、先行開発部門に移った。
ドラマは、その年の12月に始まった。
水野はドイツのニュルブルクリンクのサーキット(以下ニュル)で、最新のドイツ車のハンドルを握りながら新車の構想を練っていた。入り口のロータリーに差し掛かったとき、携帯電話が鳴った。
電話口で「GT-Rを任せる」という上司の声を聞いた途端、水野は逆上した。
「ふざけないでください。断ったはずだし、新しいセダンを僕が考えてるときに、何で今さらそんな話がくるんですか!」
度を失った水野は、今度は助手席の部下に痣ができるほど強く腕を掴まれた。
「(部下が)真っ青になって『水野さん、逆、逆。向こうから車来る』って。逆上するあまり、コースを逆走してたんだ」