飲食と対話は重要なコンテンツ
まず、受付をすませるとすぐにウェルカムドリンクと食事を提供していました。通常はイベントの後に懇親会や打ち上げがついているものですが、ラーニングバーではこれを本体に組み入れたのです。共食共飲は、コミュニティー形成の中核になるものです。原始共同体は火を囲んでともに食い、飲み、踊って、結束を深めました。さすがにいま火は焚けないけれども、飲食しながら対話するのは可能です。
プログラム開始前には、15分のイントロダクションがあって、そこで改めてラーニングバーのコンセプト、ルールなどを説明します。そこからのカリキュラムは、30分レクチャーを聞いて20分対話をして、30分レクチャーをやってまた20分対話があって、最後にラップアップをして終わる、というものでした。
僕は大人の学びは人の話を「聞いて帰る」ではダメで、聞く(インプット)、考える(スループット)、話す(アウトプット)があったうえで、新たな気づきを得ることが大事だと考えています。ですから参加者同士の内省や対話はイベントの重要なコンテンツでした。ただし、「聞く」「考える」「話す」のそれぞれのモジュールは、30分を上限としました。仕事帰りの人にとって、それ以上集中するのは負荷がかかりすぎることがわかったからです。
もうひとついえば、このラーニングバーの会場が大学の教室だったのもよかったのかもしれません。社会人の多くが大学時代に自分が十分に学ばなかったという負い目を持っていて、心のどこかでもう一回学び直したいと思っている。だから、貸会議場ではなくて、東京大学のキャンパスというアカデミックな環境でやっていることに価値を感じる人も少なからずいたのでしょう。
「水戸黄門の印籠」を出してはいけない
このように、ラーニングバーはリラックスした自由な雰囲気を保つために、じつは隅々まで計算し、周到に準備をして行っていました。隅々まで用意周到に準備するからこそ、実際の本番ではインプロビゼーション(即興)できるのです。そういう柔軟な場の運営が人気を博し、口コミだけで参加者の数がどんどん増えていったのだと思います。
ただ、参加希望者が定員を大幅にオーバーするようになってくると、場の性質が変わってくるなと感じました。もっとも危惧したのはいつメン(いつものメンバー)が固定して、マンネリ化していくということです。
僕は、「集い」は生き物みたいなものだと思っています。常に動き、変化している有機体のイメ―ジです。人が集うときには何かの目的があって、それに共感する人が集まり、共通の関心ごとを通じて人とつながって新たな気づきを得るわけですが、長く継続していくと、どうしても関係者や参加者のなかに「慣れ」や「過剰適応」が生まれてきます。
さきほどラーニングバーの独特の運営方法について少し詳しくお話しましたが、どんなイベントにもある種の型があります。僕はこれを「イベント文法」と呼んでいるのですが、これがあると、運営側にも参加者側にも安心感があり、慣れてくると型どおりにやることが気持ちよくなってきます。「水戸黄門の印籠」と同じですね。悪人が出てきて、成敗され、最後は黄門様の印籠が出される、この繰り返しなのです。
問題はこの文法に慣れ親しんでいると、新たに何かを変化させようとすることを、関係者も参加者もしなくなる。また「イベント文法」を共有していない人なかなか入り込めなくなってしまうのです。
常連さんは、慣れてくると「常連さん風の振る舞い」をしはじめる方も出てきます。「この会は、知り合いを連れて行くから、特別に3席とっといて」とお願いされたこともありました。こういうとき、新しい人に配慮したり、勝手なことを言う常連に注意したりせず、いつもと同じことをやって、最後に水戸黄門の印籠を出して終わりにすると、どんどん場が荒れていくんです。