与えられた場で自由に考え、自由に話すことはできるのか
「与えられた場で自由に考え、自由に話すことはできるのか?」
そんな問いかけからイベントははじまった。代官山 蔦屋書店で3カ月に1度ほど開催されている「代官山人文カフェ」の一幕だ。この日のゲストは、学校や企業で哲学対話を実践する「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」のメンバー4名だ。
「自由に話すことより、考えることが大事では?」
「じゃあ、“自由に考える”って、どういうこと?」
「与えられたテーマがある時点で、“自由”と言えるの?」
ゲスト同士の会話が深まる中、30名ほどの参加者は、ただじっと聴いている。会の中盤、おもむろに一人の参加者が立ち上がって言った。「もう(店を)出ないといけないけれど、1つだけいいですか……」。会場の均衡が破られた。男性は続けた。
「この場をすごく不自由に感じていました。ルールがないと、身体は不自由になる。会のはじめにルールが明示されていれば、それに対する何らかの反応を起こすことができた。ルールがないことによる抑圧もある」
登壇者は、場のルールを決めずに自分たちだけで対話に入った。そのことが、参加者の身体を縛っていたのではないか――。この日のテーマである「与えられた場で自由に考え、自由に話すことはできるのか?」に対する男性なりの答えだったのだろう。この発言を境に登壇者と参加者の間に対話の水路ができ、次々と発言が続いた。
「今日はスリリングな会でしたね……」
イベントの企画をした代官山 蔦屋書店の人文コンシェルジュ、宮台由美子さんは、終了後に静かにそう言った。