※本稿は、呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
秀吉の人生を変えた“大役”
秀吉の生涯にとって大きな転機となったのは、天正5年(1577)に中国地方の攻略という大役を与えられたことであろう。信長と毛利氏の両者は当初、友好関係にあったが、やがて信長が領国を拡大させていき、互いに領土を接するようになると両者の関係はこじれていく。
天正4年の4月に、信長が明智光秀らに石山本願寺を攻撃させたところ、本願寺は毛利氏からの兵糧などの支援を受け、第1次木津川口合戦では、織田水軍が毛利水軍に敗れた。
こうなると、信長の天下統一を阻む最大の勢力は中国地方の毛利氏である。天正5年10月、信長は秀吉を中国方面司令官に抜擢し、毛利氏の対処にあたらせている。
天正9年10月に秀吉は、毛利方の重要拠点である因幡鳥取城を陥落させ、守兵として宮部継潤以下を置いて、当時居城としていた姫路城に戻った。次なる攻撃目標は清水宗治の守る備中高松城である。
奇策「水攻め」を使った2つの狙い
天正10年5月、信長の命を受けた秀吉は、備中高松城を攻囲した。同城は毛利氏の領土を防衛する要衝に位置し、湿地の泥沼、自然の河川を水堀とする天然の要害であった。秀吉はそうした高松城の防備を逆手にとり、かえって低湿地であるがゆえの弱点をつくことを考えた。有名な水攻めである。
清水宗治が守る高松城の籠城兵力は約3千人であるのに対し、秀吉軍は宇喜多氏の援軍を含めると約2万5千人に上り、圧倒的な兵力差があった。絶対的な優位がありながら、あえて水攻めという迂遠な方法を選択したのは、単に兵糧攻めを狙っていたわけではなく、秀吉は時間をかけて攻囲することで毛利氏主力の来援を誘い、信長の援軍を得て一気に織田・毛利両雄の主力決戦に持ち込もうとしていたからと考えられる。
この戦いで用いられた水攻めは、秀吉の大胆な発想力と緻密な実行力の象徴として知られている。しかし近年、この水攻めが従来考えられていたほど大規模ではなかったとする新説が脚光を浴びている。

