「本能寺の変」黒幕説は本当か
加えて、最近の城郭考古学の成果により、秀吉が信長の高松城到着に備えて、信長とその親衛隊が宿泊・補給を行うための駐屯基地「御座所」を、信長の進軍予定ルートに複数建設していたことが明らかになった。
「御座所」と「御座所」を結ぶ情報ネットワークを通じて、秀吉はいち早く本能寺の変の情報を入手し、信長のために整備した街道と、信長の親衛隊のために用意した「御座所」の備蓄物資を利用して「中国大返し」を成功させたのである。
したがって「秀吉が中国大返しをできたのは、事前に本能寺の変を知っていた、あるいは予測していたからだ」という説は否定される。事前に想定していなくても、中国大返しは実行可能だった。
さらに『惟任退治記』によれば、秀吉は遅れる者を置いて急行したため、山崎の戦いに間に合った秀吉軍は1万人程度であった。山崎の戦いの勝利には、秀吉軍に合流した織田信孝軍や摂津勢(中川清秀・高山右近)らも大きく貢献している。
秀吉の武功は優れた判断力の賜物
秀吉が幸運だったのは、本能寺の変が起こる前に、毛利氏との講和交渉を始めていたことだろう。秀吉の水攻めにより備中高松城の救援が事実上不可能になった毛利側は、秀吉に和睦を申し入れていた。
信長から出馬の連絡を受けた秀吉は、備中・備後・美作・伯耆・出雲(現在の広島県・岡山県・鳥取県・島根県)の5カ国割譲という強気の要求をしたため交渉は難航したが、本能寺の変を知った秀吉は備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3カ国の割譲と備中高松城主清水宗治の切腹に譲歩した。本能寺の変を知らない毛利氏がこれをあっさり呑んだのは当然である。
秀吉の判断の速さは確かに驚異的で、称賛に値する。しかし「中国大返し」は決して神がかった奇跡ではなく、それを可能とする環境は準備されていたのである。



