※本稿は、呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
「淀殿=豊臣家を滅ぼした悪女」を覆す新説
従来の歴史叙述では、北政所(ねね)と淀殿(茶々)の不仲が強調されてきた。けれども、淀殿の出産が北政所の承認によるものだとすると、通説は再検討を要するだろう。
両者の不仲説は江戸時代の『絵本太閤記』に起源を持つ。同書は、北政所を秀吉の成功を支えた賢妻、淀殿を権勢欲が強く豊臣家滅亡を招いた悪女として対比的に描く。この枠組みは近代以降も、渡辺世祐や桑田忠親ら著名な歴史学者によって継承された。
特に、慶長4年(1599)9月の北政所の大坂城退去と、それに続く徳川家康の大坂入城は、淀殿の素行不良に反発した北政所が家康と提携した結果と解釈されてきた。
すなわち、秀頼への挨拶を名目に大坂に乗り込んできた家康に対し、北政所が大坂城西の丸を自発的に譲り渡したというのである。
しかし、不仲説は一次史料に基づく検証を欠いており、疑問なしとしない。近年の研究では、両者が豊臣家の存続を共通の目標として協力関係を築いていたことが指摘されている。
秀吉の未亡人が示したリーダーシップ
豊臣秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂が顕著となった。慶長4年閏3月の石田三成襲撃事件は、その対立が表面化した最初の危機だった。伏見城内の自邸「治部少丸」に籠城した石田三成を、豊臣恩顧の武功派七将(加藤清正、福島正則ら)が包囲したのである。
武力衝突に至る恐れがあったこの大事件を、石田三成の引退という形で収拾したのは徳川家康であり、家康による豊臣政権掌握のきっかけと評価されている。けれども跡部信氏は、家康の活躍だけを特筆するのは一面的であると批判する。
公家の山科言経の日記『言経卿記』は「大閤政所(北政所)御無事」と記し、北政所による調停を明確に示す。北政所の役割は、両派の仲裁者としての中立性にあった。
ルイス・フロイスの報告書によれば、秀吉生前、北政所は朝鮮出兵を巡る講和問題で失脚しかけた小西行長を慰撫し、武功派(武断派)と吏僚派(文治派)の均衡を保つ姿勢を示していた。この経験が、襲撃事件の解決に活かされた。
もちろん北政所の調停は、家康、毛利輝元、上杉景勝ら大老衆が進めていた事件処理と無関係ではなく、むしろそれらを後押しするものにすぎなかっただろう。とはいえ、山科言経が北政所の貢献を特記した事実は無視できない。

