虚構まみれの「英雄秀吉」

通説では『川角太閤記』などに依拠し、秀吉が足守川あしもりがわの流れをせき止め、長さ約2.8キロメートル、高さ約7メートルの堤防をわずか12日間で築き、城を湖に囲まれた「陸の孤島」にしたとされている。梅雨の雨量も相まって高松城内は浸水し、兵糧の搬入が断たれたことで籠城軍は疲弊したと伝えられている。

ところが、歴史地理学の観点から通説の見直しが進んでいる。『川角太閤記』などが秀吉を英雄化するために、高松城水攻めの規模を誇張した、という可能性が指摘されるに至ったのだ。堤防の膨大な工事量、工事期間の短さを考慮すると、当時の土木技術や資材・人員調達の限界を超えているからである。

近年の研究成果に基づくと、3キロメートルにも及ぶ長大な堤防を築かずとも、その10分の1の300メートルもあれば、地形上、容易に城を水没させることが可能であったことが明らかにされている。山手線の車両11両編成が約220メートルなので、その約1.5倍にすぎない。

備中高松城の所在地は、東・西・北の三方を山地で囲まれており、唯一開けた南側の平野部にも、足守川による侵食で形成された島状の自然堤防が連なって存在していたために、土地に雨水が滞留たいりゅうしやすかった。

明智光秀のあっけない最期

自然堤防と蛙ヶ鼻かわずがはなの間には、地元で「水通し(水越し)」と呼ばれる幅300メートル規模の狭隘地きょうあいちが存在し、高松地区における唯一の排水溝として機能していた。水攻めは梅雨の時期にあたり、秀吉はこの「水通し」に堤を築いて排水を遮断するだけで、水攻めに必要な水量が確保できたのである。

豊臣秀吉は備中高松城を水攻めにし、毛利氏は援軍を送ることができず、傍観するだけであった。清水宗治ら兵卒の命運は、もはや尽きようとしていた。

秀吉は信長の到着を待ちつつ、毛利氏と講和交渉を進めた。ところが、本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれた。この報に接した秀吉は毛利氏との講和交渉を即座にまとめ、急ぎ京都へ向けて進軍を開始した。秀吉が速やかに畿内に戻ったことで、去就を迷っていた織田家の部将たちは雪崩を打って秀吉方につき、秀吉の迅速な帰還を想定していなかった光秀は孤立した。

光秀は本能寺の変の11日後には山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に討たれた。俗に「三日天下」と言う。

本能寺焼討之図
写真=Wikimedia Commons
本能寺焼討之図(画=楊斎延一/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons