数多く残る「中国大返し」の証拠

備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)から山城国山崎やましろのくにやまざき(現京都府乙訓郡大山崎町)までの約230キロメートルを踏破した秀吉の行軍は後世「中国大返し」と呼ばれ伝説化された。特に沼―姫路間は「一昼夜で70キロメートルを駆け抜けた」とされ、この驚異的な行軍は秀吉を天下人に押し上げた奇跡として語り継がれてきた。

すなわち、『惟任退治記これとうたいじき』『甫庵太閤記ほあんたいこうき』などによると、備前沼城(現岡山県岡山市東区沼)から播磨姫路城(現兵庫県姫路市)までの行程(約70キロ)を一昼夜で進軍したというのだ。

滋賀県立安土城考古博物館所蔵の天正10年10月18日付斎藤玄蕃助さいとうげんばのすけ岡本良勝おかもとよしかつ宛て羽柴秀吉書状写にも、「六日まで逗留致し、終に城主の事は申すに及ばず、ことごとく首を刎ね候事」「同(6月)七日に、廿七里の所を一日一夜に姫路へ打ち入る」とある。

秀吉は6日まで高松に逗留して城主清水宗治の切腹を見届け、7日に高松から姫路に移動したという。高松城から姫路までは約90キロである。書状は写しとはいえ一次史料であり、『惟任退治記』『甫庵太閤記』の記述ともほぼ合致するため、一昼夜の急行軍が信じられてきた。

清水宗治の錦絵
写真=Wikimedia Commons
清水宗治の錦絵(画=歌川芳幾/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

最新研究でバレた秀吉の誇張

けれども、上記の「一昼夜で二十七里」という記述は、秀吉が信長三男である織田信孝のぶたかに対して(斎藤・岡本は信孝の家老)、明智光秀討伐戦における自身の忠義と迅速さを強調するための宣伝の文脈で語られたものである。

この時代の行軍速度を考慮すれば、大軍が短期間でこれほどの距離を進むことは物理的に不可能であり、秀吉の発言には相当な誇張が含まれていたと見るべきであろう。

渡邊大門氏や服部英雄氏は一次史料を精査し、秀吉自身の書簡(「梅林寺文書」)や他の同時代史料を再検討した。

それによれば、秀吉は6月5日時点で既に高松城を出発し、安全地帯である備前国の野殿まで進軍していた。さらに、道中の警護を担う先遣隊せんけんたいが、4日には備中国を出て、同じく3日をかけて6日に播磨国の姫路城に入城していた。

従来の6月6日高松城出発説は誤りであり、秀吉の姫路への移動は3日間をかけた現実的な行軍だったと考えられる。