書評を書くにあたり、この本だけは担当編集者に電話をし、出版意図を確認した。なにしろ著者は2人の人間を殺め、無期懲役刑で服役中なのだ。著者が隠しているかもしれない、なんらかの目的に利用されてはならないと考えたのだ。

編集者がいうには著者は担当者を指名して、刑務所の中から原稿を送りつけてきたという。出版を決意したのは、面会などを通じて著者の更生が見てとれ、長期刑務所と受刑者の稀なドキュメンタリーとしての価値があると考えたとのことだった。

これほどまでに用心したのは本書の著者が非常に高い知能を持ち、外形的には平均をはるかに上回る教養を持つ人物だからだ。裁判では著者の性格鑑定が行われた。その報告書において鑑定人は「当職は、30年の職歴の中でこのような奇跡的な知能レベルに遭遇することは初めてであり、他の症例を調査しても前例がない」と記している。

じっさい、本書の中でも「同害報復(タリオ)」「理非曲折」「人格神ではない天の存在」「倫理の対称性」など裁判の過程で生半可に覚えた法律用語とは全く異なるレベルの言葉を苦もなく使っている。カントの『人倫の形而上学』を引き合いに出し、行動経済学のプロスペクト理論について言及する。おそらくある意味での天才なのだろう。

とはいえ殺人犯である。その2件の殺人も特異なものだ。カネ目当てや単なる怨恨などではなく「理は私にあると考えた」うえで「自分の無謬性を信じて」殺人を犯したというのである。

本書の前半は生い立ちから殺人、裁判、そして刑務所内の生活についての2章だ。著者の特異な性格と能力、罪の気づきと反省にいたるまでが流れるように書かれている。じつは前半はある意味で後半を書くための資格証明のようなものだ。自分自身とその行為を客観的に評価したうえで、本格的な贖罪意識に目覚めるまでの章だ。

後半は12人の同囚受刑者へのインタビューだ。現代日本において罪と罰は均衡しているのか、矯正と刑罰は両立しうるのかという問いを厳しく司法と法執行に投げかけてくる。

<strong>『人を殺すとはどういうことか』 美達大和著<br>
</strong>新潮社 本体価格1400円+税

著者は全く反省がないどころか、反省する可能性もない長期刑の受刑者たちがいつかは社会に出てくることになると警告する。前非を悔い、真っ当に生きようと模索する受刑者はほんのわずかだというのだ。むしろLB級刑務所は「犯罪行為についての雑多な情報が交換され、受刑者はいながらにして犯罪力の強化に努められる」「悪党ランド」になっているという。

また刑務所内の生活がある種の人々にとってはじつは楽しいものになっており、再入所可能なダイエット食付きで健康的な施設になっているともいう。多くの受刑者たちは刑期を務めるだけで罪を償ったと考えているのだ。

本年7月下旬から裁判員が加わった裁判が始まる。主に死刑または無期懲役になる可能性のある事件が対象だ。最高裁によれば平成17年を例にとれば、裁判員制度の対象裁判は3700件弱だ。

裁判員制度の導入は、著者が「あとがき」でいう「執行猶予付きの死刑」を準備してからでもよかったかもしれない。裁判員としては確定死刑もいやだが、無反省な殺人者がまたシャバに出てくることになるような無責任な判決も出したくないはずだからだ。