世の書物には2種類ある。1つは純粋に楽しんで読む本、もう1つは何かの役に立てようと読む本である。本書は日常のなかにある美しい一瞬を写したカラー写真集で、両方を満たす本でもある。対象はミルク、ダイコン、液晶テレビ、CD、ライターといったごく身近なものばかりだが、ありふれた物質も科学のレンズを通すと意外におもしろい姿が現れるのである。

丸く膨らんだシャボン玉の表面をよく見ると、鮮やかな色の世界が宇宙を漂う惑星のように広がっている。また、蚊取り線香の煙の渦うずには、空気の流れが醸かもし出す美しい造形美が存在する。こんなことは教えてもらわなければ一生知る機会がないのではないか。

著者は大学で物理学を専攻し、中学・高校で教えた経験を持つプロフェッショナルの写真家である。自然界の不思議な現象をカメラに納めることに無類の喜びを見いだす芸術家でもある。

何よりも嬉しいのは、一流のプロの写真家が長年の試行錯誤の末に得たテクニックを、読者に開示してくれたことだ。ともすれば科学写真の世界は、専門の研究者にしか縁のないものである。我々の周りには自然の美しさが満ち溢れているのだが、おいそれと簡単に観賞できるものではなかったのだ。

具体的に紹介してみよう。線香の煙が作る美しいらせん模様は、手間を惜しまずシャッターを何十回となく押しさえすれば記録できる(4ページ)。また、セッケン膜の表面に織りなす美しい色彩が、一眼レフカメラと顕微鏡を用いて簡単に撮影されている(2ページ)。

<strong>『Focus in the Dark 科学写真を撮る』 伊知地国夫著<br>
</strong>岩波書店 本体価格1900円+税

「それぞれの現象に気がついてから納得のいく写真が撮れるまでには、多数のカットを写すことになるが、それだけによい画像が得られたときは、うれしいものだ。そしてその画像から得られる感動が、また次の撮影に向かわせてくれる」と著者はホームページで述懐する。カメラを一度でも手にしたことのある人ならば、大きく頷うなずくところだろう。

巻末には、コンパクトデジタルカメラを用いた撮影技術が、余すところなく披露される。安価なカメラでこんな不思議世界へ接近できるとは、近年急速に発達したテクノロジーのお陰にほかならない。

本書が面白いのは、誰にでも使える技術の紹介からはじまり、通のカメラマニアを唸らせる高度な操作テクニックまで幅広く述べている点である。しかも無味乾燥な記述ではなく、簡にして要を得た文で綴られている。理系ならではの対象への精確な眼と、芸術家らしい色と形に対する鋭い感性が随所に表れ、エッセイのようにも読めるのである。

評者自身も地層の写真を長年撮り続けてきたのだが、細部を明瞭に示すだけではなく全体の構造を伝えるのが大変むずかしい。たとえば、論文に掲載するような明確な目的を持つ写真のフレーミングには、いつも苦労する。「赤インクの結晶」の見事なトリミング(18ページ)など、本書から学ぶべき点は実に多いのである。

本書に提案された技術は、広告写真にも応用できるのではないかと思う。最近とみに話題となっている科学のアウトリーチ(啓発・教育活動)にも打ってつけの本であり、プロもアマチュアも同時に楽しめる写真集であることは間違いない。