何でも「ウザい」で片付けてしまう人々

たとえば、「ウザい」。このことばにはそのときの状況や気持ちの細かな差異によって、その「近似値」となるいろいろな心情語が存在する。「いまいましい」「鬱陶しい」「うんざりする」「げんなりする」「小憎たらしい」「癪に障る」「鼻につく」「不快だ」「迷惑だ」「わずらわしい」などである。

次の例文を見てみよう。

例A:トイレの壁に貼ってある日本地図、ウザいから外していい?
例B:「家に帰るまでが修学旅行です」なんて、校長先生がまた同じ話をしたのでウザい。
例C:弟は、年下のくせに姉の私に生意気な口を利くのでウザい。

A、B、Cにはどれも「ウザい」という表現が使われているが、それぞれの気持ちが異なる。この場合、Aは「鬱陶しい」、Bは「うんざりする」、Cは「小憎たらしい」などの心情表現がぴったりくる。

すなわち、なんでもかんでもマイナス表現を「ウザい」と発することで済ませてしまうと、そのときどきの微細な心情を自覚できなくなってしまう。わたしはこのことがフィーリングプアにつながるのではないかと考えている。

*写真はイメージです

日本語は外国語と比較して心情語が多彩であると言われている。これは日本が四季に富んだ風光明媚な自然を有していることと無縁ではないだろう。また、日本の国土は狭く、しかも多くが山岳で、町をつくれる平地エリアは30%弱しかない。このため、古くから隣人との心の交流を重んじる環境があり、心情語を発達させたとも考えられる。

人間はことばによって思考している。つまり語彙が貧しければ貧しいほど、その思考回路は単純になってしまう。同様に、もし手持ちの心情語の数が少なければ、感情そのものも貧しくなってしまうのではないか。その結果、他者から「無表情な人間」と思われる恐れさえあるのではないか。

「フィーリングプアな生徒が増えている」という指導者たちの共通認識を反映しているのか、多くの子どもたちに警鐘を鳴らしているのか、中学入試の国語問題では「心情」の読み取りに関する出題が頻出する。それも「うれしい」「かなしい」といった単純なことばでなく、より細分化された「心情語」を駆使しなければ解答できないものが多い。