「いじめ」は人間の本能だ。だから作家の加藤廣さんは「嫉妬されないように、勉強している姿を他人に見せてはいけない」と言う。60歳から小説執筆をはじめ、75歳のときに『信長の棺』で作家デビュー。以来、ベストセラーを出し続けている加藤さんが、50代の読者に向けてアドバイスする――。

50歳までに組織から逃げることを決意

いまの50代は、昔と状況が異なります。私が中小企業金融公庫(現・日本政策金融公庫)に入庫したのは1954年。そのころは定年が55歳で、60代で亡くなる人が少なくありませんでした。

加藤 廣●1930年生まれ。中小企業金融公庫、山一証券勤務を経て、経営コンサルタントとして活躍。75歳のときに『信長の棺』で作家デビュー。近著に『水軍遙かなり(上・下)』(文春文庫)など。

しかし、いまは寿命がずいぶんと延びて、定年は65歳になりました。いまの50代は、長い人生をどのように生きるのかということと、否が応でも向き合わなくてはいけない年代といえます。

幸い、私は早い段階から組織に頼らずに自分で稼ぐことを考えていました。とくに独立心が強かったわけではなく、もし三井や三菱、住友に就職していたら、そこで頭角を現すことを志していたでしょう。でも、いまでこそ大組織の中小企業金融公庫は、私が入った当時は約40人。将来は東大の同級生たちが役所から天下って理事になりますが、こちらは出世してもせいぜい次長クラスです。それは御免こうむりたいので、自然に「50歳までに組織から逃げよう」と考えるようになりました。

なぜ先がないと気づいた段階で逃げなかったのか。それは、まだポータブルスキルが身についていなかったからです。

山一証券経済研究所に転職して、経営コンサルタントとしての活動を始めたのは51歳のころです。どうしてコンサルティングができたのかといえば、キャッシュフロー計算書を見る手法を自分で工夫してつくったからです。その手法は、30代や40代では完成しませんでした。外で通用するレベルまでスキルを磨きあげるには、ある程度の経験が必要です。

もっとも、50代になってからいきなり無手勝流で独立するのはリスクが高いと思います。私は何の才能もなかったけど、唯一、文章を書くことだけは得意でした。まずはその才能を活かして、40歳を過ぎたころからビジネス系の雑文を書き始めました。新聞にも寄稿したし、プレジデントにも寄稿しましたよ。原稿料は微々たるもので、給料が1だとすると、最初は1.1足のわらじです。

でも、それを続けていくうちに、やがて2足になっていく。2.5足になればもう十分です。組織に憂いなく「ハイ、サヨナラ」ができます。