吉川英治の『宮本武蔵』は息が長い。最初にベストセラーになったのが戦時中であり、半世紀以上経った今も売れ続けている。戦後、剣にすべてを託した武蔵の姿勢が戦争遂行を助長したのではないか、という批判が知識人から出たが、「武蔵の心構えがあれば、敗戦も怖くない」という手紙が読者から吉川に届いたそうだ。時代を乗り越えて通用する普遍性をもった作品であり、100年に一度の大不況下、もう一度クローズアップされてもおかしくない。
戦前の武蔵に対して、戦後は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が時代小説のかたちをとった青春小説の典型である。ストイックな武蔵と対照的に、竜馬は自分の可能性を試し、さまざまな夢を実現させていく。正反対の青春像だが、両方から日本人は影響を受け続けている。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』も人気が高い。同心や密偵、あるいは敵対する盗賊を前面に出し、鬼平はまとめ役として一歩引いた感じで登場する。にもかかわらず、その大きな存在感はすばらしい。
戦時中、新聞連載されていた子母澤寛の『勝海舟』には逸話がある。敗戦時、GHQが「封建的な精神を助長する読み物は掲載中止」といってきた。当時、江戸開城の場面だったが、担当者が「これはGHQがやって来た場面を、時代もののかたちを借りて説明しているんです」と抗弁し、通ったそうだ。戦中戦後とも史観を変えずに書き継がれた大作だ。
最後に、郷里の史上の人物、上杉鷹山を描いた藤沢周平の遺作『漆の実のみのる国』を挙げたい。司馬.太郎が国を憂うると大所高所から論じるが、藤沢は「この国が何とかよくなってほしい」という「祈り」を描き、漆が実り、風にかさかさ揺れる場面で終わる。最初の構想と違ったそうだが、「これでいい」と最後の原稿を編集者に渡した。藤沢の最後のメッセージだった。