先の戦争の開戦を巡る物語で、もう一人、私の心に非常にしみる人物がいる。戦前最後の三井物産の常務の一人で後に民間人として初めて国鉄総裁を務めた石田禮助である。彼は、山本五十六とは別の意味で日米開戦の日を迎えた。

開戦1週間前の最後の常務会、いまでいう三井物産の経営会議では、大きな決断を迫られていた。ニューヨーク支店から本社の決断を仰ぐ電信が入ったからだ。すでにニューヨークでは邦人の引き揚げが始まっていたが、三井も支店をたたんで引き揚げるべきかどうか、決断しなければならないギリギリのタイミングだった。

当時、石田はサンフランシスコ支店長、ニューヨーク支店長を歴任後に本社で常務をしていた。アメリカを知悉する石田は、十中八九負ける日米戦争は避けるべきだという立場で近衛文麿らとともに動いていた。

石田の開戦は避けるべきというロジックは、往々にして避けうるという希望的観測論につながった。戦争を回避すべく仕掛けているのだから、自分の会社の支店を畳んでは筋が通らないという思いもあったのだろう。石田は支店を畳まずしばらく頑張るべきだと主張したのだ。

当時、石田の一年年長の筆頭常務が、戦後の吉田茂内閣で大蔵大臣を務めた向井忠晴だった。向井は向井でロンドン支店長の立場などから世界の趨勢を見て、戦争は不可避だからニューヨーク支店から早く引き揚げさせたほうがいいと考えていた。最終的に三井物産はアメリカのことに一番通じている石田の顔を立てて、引き揚げさせないという判断をする。そして真珠湾攻撃の日、石田は自ら辞表を提出して三井を去ってゆく。

開戦後、ニューヨーク支店の関係者は家族も含めてヴァージニアの山の中にある捕虜収容所に押し込められて、捕虜交換船で帰国するまで大変な苦労をした。その辛酸にも物語があるのだが、いずれにしても、当時の先輩たちは制約がある中で必死に情報を集めて決断を下し、その責を負った。歴史に対して命がけで苦闘していたという気がする。

余談になるが、後に香港を占領した日本軍は、軍政下に置くために英語ができて経済のわかる人材にマネジメントさせなければならないということで、石田に白羽の矢を立てた。しかしながら、石田がそれを受けると、三井物産を率いていた向井は全社を挙げてその人事を潰した。また貿易公団の理事長になった向井がやった最初の人事は、理事である石田の首を切ることだったという。

石田と向井は一生和解しなかったという事後談が残っているほど、開戦時の判断は後々まで遺恨を引き摺る重さがあったのだ。