誤解がないようにいうが、私は真珠湾攻撃を礼賛するつもりで山本五十六を取り上げたわけではない。確かに戦術論においてその構想力は、大変敬服できるが、国家の総合戦略という観点から見た場合は、戦術論とは違った次元の議論が必要になる。
それと同時に真珠湾攻撃が構想力のマキシマムだったのかという視点で考えてみることも必要だ。当時、前がかりに暴走した意見もあれば反対論や慎重論など、さまざまな意見が交錯した中で、山本五十六はコンセンサスを凝縮してよくぞ真珠湾攻撃まで持ち込んだものだと思う。
しかし、そこには限界があったことも確かだ。なぜ真珠湾で止めたのか、陸戦隊を上陸させて占拠してしまわなかったのか、などという疑問も一方で浮かぶ。
例えば、私が山本五十六の立場だったら、このように考えたかもしれない。パナマ運河を通過できる船舶を「パナマックス」というが、アメリカは今日でも大型の航空母艦を除いて、パナマ運河を通過できる大きさを軍艦の規格にしている。まずパナマ運河に民間船を送り込んで自爆させて使用不能な状態にしてから、真珠湾を攻撃して、陸戦隊を上陸させて真珠湾を制圧する。その後で、石油基地を占拠して兵站を確保し、次の展開につなげたらどうだったのか。スマトラ島のパレンバンだ、シンガポールだと南方に展開するより、槍のようにアメリカだけを突き刺してゆくような戦い方をしたほうが、最終的に和平に持ち込むにしても有利に事を運べたかもしれない。
もろろん歴史に「たら・れば」はなく、我々に突きつけられるのは厳然たる事実のみだ。しかし、漠然としたイメージや受け身の情報に基づいて歴史を受け止めるだけでは、本当の意味で歴史のメッセージに耳を傾けることはできない。漫然と歴史書を読み、歴史の事実関係を年表的に覚えるだけでは、平板でしかない。
大切なのは、立体感を持って歴史の持つ意味をとらえること。山本五十六の企画構想力はどこからきているのか。もし山本五十六の立場で、アメリカと戦争しなければならなくなったとしたらどうするか、などと思いを巡らせてみる。そうした思索や思考実験を重ねることで、平板な歴史が立体的に浮かび上がってくる。
山本五十六がワシントン駐在武官時代に故郷の恩師に送ったポトマック河畔の桜の絵葉書にこう書き添えている。
「当地昨今吉野桜の満開、故国の美を凌ぐに足るもの有之候。大和魂また我国の一手独専にあらざるを諷するに似たり」
見開かれたその目はアメリカの実力も、精神主義的な世界に陶酔している日本の限界や危険性も十二分に承知していた。だから陸軍の強硬派や右翼から「軟弱な親米英派」「国賊」という論難を受けながら、最後まで開戦に反対したのだ。しかし国家の最終決断を受けて、新潟県長岡出身の生真面目な海軍軍人は最高責任者としてアメリカと戦うシナリオを描く。
思うに任せぬまま、与えられたカードでギリギリの戦いをしなければならない重み、そして焦燥感と深い悲しみ。そこまで理解しなければ、山本五十六から学んだことにはならないのだ。