ビザが下りずアルバイト生活

海外に生きる中国人は華僑と呼ばれる。異国の地で会社をつくり、事業の新天地を切り開く華僑の創業物語を語る際、よく使われる表現には、「白手起家(バイショウチージャ)」(注:「素手で家を起こす」から転じて、裸一貫で事業を起こす、無一物で事業を成功させるの意)という四字熟語がある。実は中国の改革・開放初期に創業した企業やその創業者の多くもそれに近いような状態でスタートしたのである。

たとえば、今やパソコン製造の分野では世界の雄と恐れられるレノボである。2012年の売上額は前年比約37%増の296億ドルで、純利益が前年比73%増の4億7000万ドルだ。第3四半期の世界市場におけるシェアが15.9%を占め、世界では、ヒューレット・パッカードを超えて世界一のパソコンメーカーとなった。IBMのパソコン事業をのみ込み、日本のNECからパソコン専門会社を傘下に収め、来年、創業30年を迎えるレノボは今や中国発の多国籍企業として世界的に注目されている。

しかし、時計を1984年に戻すと、私たちの目の前に浮かんでくる景色はまったく別のものだった。当時、中国の研究機関も大学も予算に苦しんでいた。中国のコンピュータ分野の最高の人材を集めている研究機関である中国科学院計算機研究所もその例外ではなかった。年末になると、研究員をはじめとする従業員にボーナスも支給できない困窮ぶりだった。こうした困窮から自力で何とか脱出することができないかという発想から、計算機研究所所長の発案で、84年11月に「中国科学院計算機公司」という会社が設立された。科学院が出資したのはわずか20万元(現在のレートで約300万円)にすぎなかった。事務所として割り当てられたのは、20平米足らずの警備員用の小屋だった。その中国科学院計算機公司がのちに聯想(レジェンド)と社名を変え、さらに、その英語名をレノボと変えたのだ。