我々は先祖からどのようなお金のDNAを受け継いだのか。そして世界屈指の商人であるユダヤ人や華僑とどこが決定的に違うのか。
「武士は食わねど高楊枝」――。
現代人が江戸時代の武家の生活を想像したとき、真っ先に思い浮かぶのがこのフレーズだろう。武士たるもの、少々腹がへっていたからといって平然としているのが当たり前。目先の金欲しさに汲々としているようでは、武士としての面目が廃れてしまう。そうしたイメージがつきまとうのだが、実際はどうだったのか。
幕臣は将軍に拝謁できる資格を有する旗本と、その資格を持たない御家人とに分かれ、前者が6000人、後者が2万6000人ほどいた。旗本は幕臣のなかでも“エリート・ビジネスマン”のような存在で、その代表的な存在が池波正太郎氏の小説『鬼平犯科帳』で知られる火付盗賊改の長谷川平蔵である。
武家の1年間のサラリーにあたる禄高だが、長谷川家の場合は400石であったという。米1石は150キログラムで、1キログラム当たり現在の物価で約300円とすると、400石は約1800万円ということになり、長谷川家の実入りはそれなりによかったとされる。
ところが、火付盗賊改に任命された平蔵は、小説のなかでも描かれたように配下の与力や同心ばかりでなく、協力的な町人にも自腹を切ることを惜しまない気前のよい人物だった。火付盗賊改に任命されると40人扶持(1人扶持=1日当たり5合)が支給され年間では72石ほど増えるのだが、焼け石に水で家計は常に火の車のような状態であった。
「そこで役に立ったのが、父親の代から拝領屋敷内に町人などを住まわせることで得ていた地代収入。しかし、平蔵自身が建議した人足寄場の運営を任されるようになると、幕府から支給された予算ではとても賄いきれず、さらに持ち出しを余儀なくされました。やりくりに窮した平蔵は幕府から3000両ほど引き出して銭を買い集め、銭の相場が高くなったところで売り抜けて、約170両の利ざやを取って凌いだくらいです」
そう語る歴史家の安藤優一郎氏の指摘を聞くと、平蔵のような“エリート武士”であっても、日々の金の問題から背を向けることができなかったことがわかる。まして下級武士となれば、なおさらのこと。幕臣のなかで“ヒラのビジネスマン”に相当する御家人である御徒の禄高は、70俵・5人扶持でしかなかったのだ。