米1俵は3斗5升入り。1石は100升なので、70俵ならば24石5斗になる。先ほどと同じ換算でいくと、米70俵は110万25000円という計算だ。5人扶持があるとはいえ、年間1石8斗で8万1000円分にしかならない。最近「年収200万円以下のワーキングプア」がなにかと話題になるが、御徒たちの生活もさぞかし苦しかったはず。

「特に問題なのは米を売って日常の生活費にあてる金を手に入れる必要があったことです。米相場はよく乱高下し、実収入はそれに大きく影響されました。武士は食わねど高楊枝などと嘯く余裕などなく、日雇いの人足を供回りの奉公人に化けさせて急場を凌いだり、御家人同士で内職に励んでいたのです。入谷の朝顔市は東京の初夏の風物詩として有名ですが、御徒たちが組屋敷の敷地を使って栽培した朝顔を市場に出したことが始まりでした」と安藤氏はいう。

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御徒・山本政恒の現役時代の家計の収入

確かに下級武士ほど、日常の生活は困窮を極めていた。しかし、安藤氏は明治維新後に元上級武士ほど没落するケースが多かったのと対照的に、きちんとした生活基盤を築き上げる元下級武士が多かったことに注目する。その代表例が下表にある現役時代の家計の収支一覧表を掲げた御徒の山本政恒だ。彼が本家の婿養子なった安政3(1856)年から還暦を迎えた明治33(1900)年までの収支だが、380円23銭4厘の黒字になっている。もちろん、ここまで細かく計算できたのは家計管理ができていたから。

そして、この山本家の収支を見て思い浮かぶのが、中国古典の『礼記』にある「入るを量りて出ずるを為す」という教えである。事前に収入を見積もり、資金繰りとの兼ね合いを図りながら支出の管理を徹底する。実はその実践者の1人が、豪農の家に生まれ、一橋慶喜に仕えて幕臣となった渋沢栄一なのだ。

渋沢栄一の曾孫にあたる渋沢雅英・渋沢栄一記念財団理事長は「7人いた子どもの間で諍いが起きないよう、明治19(1886)年頃に一族の共同基金を立ち上げ、その運用で得た利益を本家が11分の5、6つの分家が11分の1というように分配するよう決めました。そして、基金の管理を決める同族会において本家は毎月、分家は年に2回、どのような出費をしたのか家計の報告を行うようにしたのです」と話す。

収支を精査したうえで決めた事業計画に基づくグループ経営の考え方を、いち早く一族の家計に取り入れていたわけである。同族会は昭和38(1963)年まで延べ800回以上も続けられ、家計の報告も終戦直後まで行われていた。こうしたことができたのも、日本の銀行・株式会社制度の礎をつくった渋沢栄一ならではといえそうだ。