「我々は韃靼人の侵入を経験し、次に200年の奴隷状態を経験したわけですが、実は両方とも我々の好みにかなっているからに過ぎません。今や、自由が与えられています。そして此の自由を持ちこたえていかねばならない。しかし、われわれにそれができるでしょうか。自由も奴隷状態のように、我々の好みにぴったりくるでしょうか。そこが問題です」

ドストエフスキーの小説『未成年』の一節である。ロシアの自由は、都をモスクワからサンクトペテルブルクに移し、暴力革命的に西欧化を進めたピョートル大帝によってもたらされた。本書の主人公は、そのピョートル大帝の後、違った形でロシアを変えたエカチェリーナ大帝である。

エカチェリーナはドイツの小公国の出身で、ピョートル大帝の唯一の孫、後のピョートル三世のところに、わずか14歳で嫁いでくる。ピョートル三世は肉体的にも精神的にも虚弱で、妻の肉体にも触れなかった。母であるエリザヴェータ女帝の崩御に伴い即位するが、クーデターによりわずか6カ月で亡き者にされ、エカチェリーナが帝位につく。

エカチェリーナは、若い頃から、ヴォルテールをはじめとする啓蒙主義に傾倒していた。彼女の記した政治論文は、農奴の解放や拷問の禁止などが謳われ、プロイセンのフリードリヒ二世が称賛するほどの内容だったという。しかし1773年に農民暴動「ブガチェフの乱」が起きると、その姿勢は一転する。

「教育によって、民衆に用意ができるまでは、文字が読めない者たちに啓蒙思想を授けるのは不可能である。ブガチェフ以降、エカチェリーナは自分の力で変えられる範囲内でロシアの利益になること、すなわち帝国の拡大とその文化をよくすることに専心した」(本書下巻188ページ)

オスマン帝国との露土戦争や3度にわたるポーランド分割といった膨張政策は、現代のロシアにも続いている。また文化では、エルミタージュ美術館をつくり、莫大な富で美術品を収集した。彼女自身も夜ごと、音楽、オペラ、バレエなどを楽しんだという。19世紀、プーシキンから一斉に開花する「ロシア・ルネサンス」は、エカチェリーナの文化に対する莫大な散財が貢献している。

死に至るまで、「愛がなくては、一時も生きていけない」と、近衛兵の若くて美しい男を寵臣として、次々と変えながら、傍らに置き続けた。トルコとの戦いを指揮するなど最も有能な側近であり、エカチェリーナが終生、愛した人物であるポチョムキン公も、そうした寵臣の一人であった。

ロシアを欧州の強国としたピョートル大帝の後、膨張政策を続けたエカチェリーナの生身の姿を詳細にたどることで、ロシアの歴史を知ることになる周到な読み物である。

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