盛り上がりを見せるブラジルW杯。各国のスター選手が集まる中で、ひときわ輝きを放つのがアルゼンチンのメッシ、ポルトガルのロナウド、ブラジルのネイマールの3人だ。『誰がどう言おうと議論の余地はない。現時点で、この3人が世界最高の選手だ』とは優勝候補ブラジル代表の監督スコラーリの言葉だ。欧州の著名ジャーナリストが本人たちも含めた有力者たちの証言をもとに、プライベートも含めて3人を徹底比較した書籍が『Who is the Best? ~メッシ、ロナウド、ネイマール。最高は誰だ?』。なぜ、この3人は別格なのか? 様々な面からその秘密を見ていこう。

メッシは言う。「父と僕だけがこちらに来て、残りの家族はロサリオだ。辛かったよ。マティアス、ロドリゴ、妹、母が恋しくて仕方なかった。父に見られないように、一人ぼっちで何度も泣いたよ。アルゼンチンからスペインへ国が変わり、ものすごく苦しかった。みんなと離れてしまったのだから」

レオ・メッシと父ホルヘは、2000年9月16日にロサリオを出発した。ブエノスアイレスで大西洋を越えるバルセロナ行きの飛行機に乗り込んだ。代理人のオラシオ・ガッジオーリ、そしてバルサのソシオ会員番号2292でもある同じく代理人のジョゼップ・マリア・ミンゲーリャの仲立ちもあり、当時のジョアン・ガスパール会長と話し合いをして、レオの代理人ファビアン・ソルディーニのお膳立てで、晴れてレオ少年はFCバルセロナのユースアカデミーであるラ・マシアの入団トライアウトを受けられることになった。

13歳にして、メッシはすでにロサリオのユースサッカー界の伝説的存在だった。CAニューウェルズ・オールドボーイズのユースリーグでプレーし、地元新聞では見開き2ページを使って特集されていた。

メッシには成長ホルモン分泌障害があり、毎晩皮下注射を打たなければならない。この治療は非常に高価(年間1万2000ユーロ近くに達する)で、1年目こそメッシの父ホルヘが働いていたアシンダル社の医療保険によって賄われていたが、2年目の終わりに近づくと同社が支払いを止めたため、メッシ一家は次の方法を考える必要に迫られた。

そんなとき、CAニューウェルズが少年の可能性に目をつけて一部の支払いを申し出た。しかし少しずつクラブからの支払いも滞っていった。その後、フットボールのおかげでホルヘ・メッシは息子と家族のための解決策を見出した。

まずはCAリーベル・プレートから、その後はFCバルセロナから治療費負担を引き出すことができた。こうして、メッシ一家はスペインに旅立つことができた。