2000年9月17日、リオネルは父ホルヘと代理人ファビアン・ソルディーニと共にカタルーニャ州の州都に到着した。エル・プラット空港で、3人はオラシオ・ガッジオーリの出迎えを受け、プラザ・ホテルに連れていかれた。アルゼンチンからのフライトは乱気流が多発し、初めて大西洋を越えた少年にとって心地いいものではなかった。それでも、到着した日の午後6時にはバルセロナの育成部門の練習に参加してた。
この練習を見た首脳陣たちの評価は上々だった。だが、彼の将来についての最終決断はあくまでも当時クラブのスポーツディレクターだったカルレス・“チャーリー”・レシャックに託されており、彼はそのときシドニー五輪サッカーの視察でオーストラリアに出張中だった。メッシは、彼の帰国を待たねばならなかった。
2000年10月3日、運命の日はやってきた。14歳と15歳の選手で構成されるユースの試合を通じてチャーリーがメッシの将来を見定めることになったのだ。「フィールドに到着したのは試合が始まって5分ほどたった時だった」。レシャックが振り返る。
「首脳陣たちがいるベンチにたどり着くために、ピッチを半周しなければならなかった。結局、ベンチにたどり着くまでに7、8分かかったのかな。そしてベンチに座ったときには、もう心は決まっていた。『すぐにでも、あの小僧と契約だ』と(ユースチームのコーチだった)ミゲリに言い渡した。
私が何を見たかって? 小柄だが動きに全くブレがなく自信たっぷりで、速くて技術もあって、誰が目の前に立ちはだかってもボールをフルスピードで運ぶことができて、相手と競り合ったときに絶対に負けなかった少年だ。まだ13歳だったが圧倒的な力があることは明らかだった。なかにはチームの助けがなければ使いものにならない選手もいるが、あいつは違った。私は“メッシを発掘した男”と呼ばれているが、私はこう答えている。もし火星人が目の前を通りかかったら誰にでも分かるはずだ、とね。それぐらいメッシは別格だった」
こうしてボスは、すぐに少年との契約に同意した。その2日後、レオと父親は飛行機でブエノスアイレスに戻った。2人は喜色満面で自宅に戻った。近いうちに再びバルセロナに戻り、正式に契約することは間違いなかった。