芥川龍之介『葱』のモデルとされる2人
そりゃ、千代も「今ちゃんの創作」と言いたくなる。
こっちは働きながら、帝大に通う忠と暮らしていたのである。その千代の唇が腫れたなんて話を、あちこちで吹聴されたのだ。「しょうがない人だなあ」と思いながらも呆れていたことだろう。
ちなみに、ドラマでは芥川龍之介をモデルにした秋山格之介(高良健吾)が登場するが、芥川の短編小説『葱』は、この千代と東光をモデルにしたとされる。前述の絶筆で、東光は、この小説に触れ、こう紹介している。
女たらしの蕩児が折角、一人の愛人を手に入れた時、彼女が男の口説き話を中断して葱を買ったので、その蕩児は目もあてられぬほどの幻滅を感じたというのがあら筋だ。
実際、東光とのデートの最中に千代が安かったからと葱を買ったのは事実であるとも東光は記している。しかし、死を目前にして、こんなのを小説にされたのは恥ずかしかったのか「芥川の愚作の一つ」「遺憾ながらこれは失敗作と言わざるを得ないのだ」と繰り返している。
千代の側から見れば、葱を買ったのは生活である。9円を貯めて店をやめた千代にとって、葱の値段は切実な問題だった。
唇が腫れるまで接吻したと盛り、手を出さなかった紳士だと盛り、葱で幻滅したことだけは57年たっても根に持つ。今東光、なんだか小さい男のようにも見えるが、だいたい人間はこんなものである。
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